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以前このコーナーでもお伝えしましたがきょうは、東日本大震災後被災地宮城県から沖縄へ避難してきていた大友さん一家のその後についてです。子どもを出産し沖縄での生活をはじめてましたが、実家の漁業を再開させるという強い思いで、宮城に戻った大友さん。地元で漁の復活・再生を目指し励んでいます。宮城県を訪ねました。

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津波で家も漁師にとって最も大事な船も失った大友さん。避難所で読んだ新聞を読んで、県営住宅の無償提供をしり沖縄行きを決めました。妻の深雪さんは、妊娠7ヶ月 避難所生活は体に障ると考えたのです。

深雪さん「空港についてすぐ泣いちゃって家もないし、車もないお金もない仕事もない。友達もいないし、 どうしようと思って」

震災後すぐ、沖縄に避難してきた漁師の大友康広さんとその家族。沖縄で子どもも出産し、生活していましたが、実家の漁業を再会させるため去年 宮城県へ戻りました。

それから、半年宮城県を訪ねると・・・・笑顔の康広さんと深雪さんが出迎えてくれました沖縄で生まれた長男のふうまくんも今月1歳迎えました。

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地元宮城の復興と親が営んでいる漁業が気がかりで戻った大友さん一家。新しい家も完成させ、新たな生活がスタートしていました。

しかし、まだ震災の爪あとは残っています。実家の前を歩く康広さん「ここで深雪ちゃんが 津波くる3分前まで一人で座っていた」「家のぐちゃぐちゃ 康広さんおうちの中もそのときのままだからこんな感じだねごちゃごちゃ 洗濯機の中みたいになるんだろうねわざと汚いくしたわけじゃなくて 帰ってきたらこんななって」

回りを見渡しても海岸は目の前にはなく、津波がここまで押し寄せたのかと思うほどです。

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康広さん「ここまで水が来たの?ってかんじ海見えないでしょ。だからみんな来ないと思っているわけさ」

震災から1年が過ぎているものの、解体作業が追いつかず、そのままになっている住宅からは、津波の物々しさが伝わってきます。町は、少しずつ復興の道を歩み徐々に旅行客も増えてきているといいますが、大友さんの仕事は厳しい直面に立ち向かっていました。

康広さん「そう船あったのが全部流されて今こういう船合わせて10そうぐらいしか残っていないという使えるものがない」

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午前5時出港、全国的に有数な漁場が広がる仙台湾は、東京電力福島第一原発から北へおよそ100キロの場所にあります。

定置網を回ってどんな魚が入っているのか楽しそうに眺める漁師たち、網にかかった魚を引き揚げて船の上に広げます。

康広さん「これコハダ 寿司の回転寿司のコハダ」「きょうあれだねクブシミの刺身だね 朝ごはん候補」

4箇所の定置網から上がったのはイカやヒラメ スズキなどの魚10種類です。魚を魚種ごとにより分けて、被災した石巻漁港の魚市場へ出荷。しかし、それをすべてセリにかけることが出来ないでいました。

康広さん「これがスズキ これが目赤河豚 これがヒラメこの3種類が今出荷規制になっている。」

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スズキからは、137ベクレルの基準値を上回る放射性セシウムが検出され出荷規制の対象となっているのです。この日取ったスズキは20本 およそ10万円の損失。。またさらにヒラメまでも出荷規制の追加となりました、2時間かけて獲った魚も・・・ 「これ放流しますね」放流するのは1分足らず漁師たちの目は、販売できない空しさが残る表情でいっぱいでした。

せっかくとれてもこんな状況ってどんな気持ちなんですか?康広さん「やっている意味がないというか楽しくないね。」

記者「1年たったからテレビでもそんなに流れなくなっているぶん復興の道をかなり歩んでいるのかなって言うふうにかんじていたんだけど私自身。」

康広さん「こうやって市場だって機能しているし、漁師もこうやって海にでてやっているんだけど それと関係ない原発問題がこれから一番付きまとってきて復興の妨げになっているから やっぱりあれが一番問題じゃないですか?」

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覚悟を決めた静かな目が印象的だった大友さん、それでも前を向いて突き進んでいくという強さがそこにはありました。

康広さん「嫁も子どもも元気なので、あとは自分が頑張って、頑張っていくしかないのでめげないで頑張るしか無いです。」

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実は私が大友さん一家を訪ねたのは、先月だったのですが、あのあと、さらに2種類の魚が出荷規制の対象になったそうなんです。せっかく魚をとっても出荷できないというのは、漁師にとっては苦しいでしょうね。

大友さん一家は、沖縄で優しくされた方々の思いを糧にここでやっていく決意をしていました。いつも寄り添い忘れず考えていきたいものです。