※ 著作権や肖像権などの都合により、全体または一部を配信できない場合があります。
News Photo

沖縄戦では「捕虜になるなら死を選べ」との教育のもとで、自決に追い込まれた学徒もいました。その中で「生きて戦争のことを伝えてほしい」と使命を受けた学徒たちがいます。沖縄戦から67年の今年、学徒たちの悲惨な体験が映画になりました。

仲里ハルさん「『生きて帰って、お父さんお母さんに会いなさい。そしてこの地上戦のことを後世に伝えてくれ』これが最後の訓示でした」

67年前の6月26日、この場所で学徒たちに「絶対に死んではならない」と小池隊長は最後の訓示をし、部隊を解散しました。

渡久地敏子さん「しばらくしたら(友達が)泣いてくるから、どうしたのと言ったら『隊長さんもう亡くなっていた』と泣いてね。隊長さんにはありがたいと思ってるよ、あんないい言葉をもらったから」

最後の言葉を掛けたあと、小池隊長は自ら命を絶っていました。

当時、多くの学徒隊が砲弾を受けたり、自決に追い込まれたりと悲しい最期を遂げていた中、ふじ学徒隊の犠牲者は途中で壕を出ていった2人だけでした。

News Photo

生存者が多いふじ部隊ですが、戦争体験はこれまであまり語られませんでした。戦争真っ只中の当時の教育は「敵の捕虜になるなら自ら死を選べ」というもの。生き残ったことへの罪悪感があったのだといいます。

真喜志光子さん「ここの女学校は何人亡くなった、これを聞いたらねなんで生きたかねと申し訳ない気持ちでしたね」

宮城トヨ子さん「先生と一緒に自決なさったんだとその話を聞いたら、一言だって話す気にならなかったですよ」

News Photo

そんな中、去年、同窓生の高齢化で合同慰霊祭が終わるのを機に映画製作の話が持ち上がりました。「生きて後世に伝えてほしい」小池隊長の言葉を思い出し、一人また一人とカメラの前で口を開いたのです。

News Photo

同窓会・新垣道子会長「今まで言えなかったことを今から言ったらいいんじゃないか、真実を話したらいいんじゃないかと今度の映画で真実を話すことになっています」 

戦闘が日増しに激しくなり、豊見城の野戦病院壕に続々と負傷兵が贈られてきた。

仲里ハルさん「上半身の手術のときには肩胛関節を落とします。私なんか体重も30キロしかなったので、これを持って行って捨てるのが大変でした」

真喜志光子さん「衛生兵がきて包帯交換をしましたけど、その兵隊さんの包帯に蛆虫がわいていたんですよね」

野戦病院での不眠不休の看護活動はおよそ2ヵ月間続きました。その間にも戦況はますます悪化。5月27日、負傷兵を残し、糸洲の壕へ部隊は撤退しました。

真喜志光子さん「悲惨な戦闘になるなら、みなさんを預かるんじゃなかった、すまないことをしたと寂しそうにして。何か歌を歌ってくれと、わかるだけの歌を歌いました」

小池隊長が最後に託したのは「地獄のような戦場の現実を伝えなければならない」という思いでした。戦後67年。元学徒たちは、小池隊長との約束を一つの形にしました。

宮城トヨ子さん「もう66年も経って、今さらと思いましたけどね。お話したりしているうちに、自分たちはこういう宿命の下に生まれてきたかなと思いまして」

戦争の恐ろしさや悲しみを伝えることが生きている者の責務だと、彼女たちは一生懸命、つらい体験を語りました。

News Photo

仲里ハルさん「地上戦の恐ろしさと野戦病院の虚しさ。これだけは世界中の人に聞いてもらいたい」

生きてこそ伝えられる元学徒たちの体験。一人でも多くの戦争を知らない世代に届くことを願って。

最後に話をしていた仲里ハルさんは、終戦から3年後に故郷の宮古島に帰り、母親と再会。その時やっと生きていてよかったと思えたということです。

戦争体験者が高齢化している中、私たちがしっかりとその言葉を受け止めてつないでいかなければならないと改めて感じます。映画「ふじ学徒隊」は来週火曜日からリウボウホールで上映されます。