※ 著作権や肖像権などの都合により、全体または一部を配信できない場合があります。

復帰から40年。当時、沖縄の先頭に立って、復帰運動を牽引した人がいます。「復帰の父」と呼ばれる沖縄県初代知事・屋良朝苗さんです。屋良さんは、当時の出来事や日々の思いを綴った日誌を残していました。そこには、復帰にかける思いが込められていました。

News Photo

大城盛三さん「屋良さんはメモ魔というあだ名もあったんです」

こう話すのは、屋良さんの秘書を務めた大城盛三さん。

大城盛三さん「将来絶対これはなくてはならないものになるから書くと」

News Photo

屋良さんの出身地・読谷村で、屋良さんが1953年から30年以上に渡って書き綴った126冊の日誌が展示されています。

1902年、読谷村に生まれた屋良さん。実家は貧しい農家でした。

News Photo

苦学の末、奨学金を得て広島師範学校へ。卒業後は、県立第一高騰女学校や台湾師範学校で教鞭を取りました。

戦後、故郷に戻った屋良さんは、沖縄群島政府文教部長として、焼け野原となった沖縄の教育再生に携わることになります。日誌が書かれ始めたのは、学校を建設しようと支援を求め、全国の関係機関を行脚していた時期。

News Photo

『彦坊ちゃんの病気も如何になったか』

沖縄に残してきた自分の子どもを案じながらも、固い決意を記しています。

『国民的関心を作るまでは帰れないのだ』

日誌の公開を進めている県公文書館で、資料整理にあたった玉寄智子さん。

玉寄智子さん「いつもこう誰かのことを心配している感じ。沖縄の教育環境についても触れたりとか、子どもたちへの思いが強いことが伝わってきます」

News Photo

復帰前、沖縄に日本の憲法や教育関係法は適用されず、子どもたちの教育環境は本土と比べて、劣悪なものでした。沖縄の子どもたちに、本土と同じ教育を受けさせてやりたい。屋良さんは「教育」を「母乳」に例え、政府にこう訴えたといいます。

大城盛三さん「義務的に愛情持って飲ますのが母乳でしょうと。僕は日本国民だから、当然国が出すべきだと言って。みんなこういった運動をして、どんどん復帰に結びついていくんですよ」

この人も教育にかける屋良さんの情熱を知るひとりです。

News Photo

仲井真知事「留学生を集めて、当時一番のごちそうだったすき焼きをご馳走してもらいましたね、大勢で。先生のお宅で。頑張って勉強しろよとお話を受けた」

この頃には、復帰運動の中心的存在だった沖縄教職員会の会長となっていた屋良さん。

News Photo

基地撤去への思いを強くする出来事も。1959年、石川市の宮森小学校にアメリカ軍機が墜落。児童11人を含む17人が死亡する大惨事となったのです。

『焼死した子供等の変わり果てたすがた。二目とは見られない』『忘れることの出来ない不幸の日だ』

News Photo

68年、革新勢力に推される形で、政治の世界へ。初の公選主席となった笑顔とは裏腹に、日誌には、復帰への重責を背負った複雑な心境を綴っています。

『当選したと言っても、側で喜んで居られる方々程にその雰囲気にひたれない』

復帰前夜、基地から派生する事件や事故に脅かされる日々の中、沖縄の人々は復帰すれば基地は本土並みに大幅に縮小されると信じていました。しかし、やがて明らかになってきたのは、日米間の沖縄返還交渉が、基地存続の方向で進められているということ。

日誌からは、沖縄の先頭に立ち「核抜き・本土並み」を政府に繰り返し要請するものの、期待される成果を引き出せない苦悩が伝わってきます。

『1日1日、これ針の山を登る運命なのだ。たえるのだ』

News Photo

復帰交渉が大詰めを迎えた71年。屋良さんは国会で「基地のない平和な島としての復帰」を訴えようと「復帰措置に関する建議書」を持って上京。しかし、降り立った空港で、基地を残す形で返還協定が強行採決されたことを知らされます。

『あ然とする。何と云ってよいか言葉も出ない』『党利党略のためには、沖縄県民の気持ちと云うのは全くふみにじられるものだ』

沖縄の人々の復帰への期待は失望に変わりました。そして、基地問題は解決されないまま、72年5月15日午前零時の瞬間を、屋良さんは嘉手納基地で迎えます。

News Photo

『キテキは聞こえなかった』『私は遂に主席から知事になった』

復帰を知らせるはずだった汽笛は、復帰後も変わらない広大な基地とアメリカ軍機の爆音の中で聞こえませんでした。

大城盛三さん「『大城君、復帰というものは基地がなくならない限り終了しないよ』と。これはもう口癖ですよ」

来場者「苦悩の連続だったと思いますけれども、一生懸命に、県民のために頑張った方だと思いますね」

News Photo

玉寄智子さん「先人が受けた悲しみとか苦労を私たち世代が忘れないで、平和につなげていくことが責任だということが、屋良さんの日誌を通して痛感しています」

基地のない平和な島を。屋良さんの思いは今、私たちに託されています。

ご健在だった頃の屋良さんを知る世代を取材すると、皆が「屋良先生」と呼ぶんですよね。その屋良先生の激励を受けた学生の一人に現在の仲井真知事がいたという事にも、教育を通して次世代にバトンを渡していこうという屋良さんの信念が表れているような気がしました。

しかしその一方、基地問題をめぐる政府とのやり取りは40年前から現在まで、全く進展がないということを痛感します。