復帰リポートです。沖縄が本土に復帰して40年。変わらずそこにあり続けるアメリカ軍基地は、様々な事件や事故など問題を起こし続けています。
しかし一方で、基地があるということは、そこには沖縄の人々との人間的な交流も当然あり、恋に落ちる男女の姿もありました。きょうはアメリカと沖縄。言葉を超えた恋の間を取り持った一人の翻訳家と、その翻訳家をモデルに本を書いた作家が見た復帰40年です。
仲間徹さん「こういう仕事が世の中にあって、いくらか世の中の役に立ったのかな、というなんかそれがあれば良いわけです」
沖縄市にある「仲間翻訳事務所」。今年78歳になった翻訳家・仲間徹さんの個人事務所。復帰前後の時代、仲間さんは多くのアメリカ兵と沖縄の女性達の恋を「ラブレター」の翻訳という形で橋渡しし、ラブレターの数は、延べ3000通にも及びました。
そんな仲間さんの仕事に興味を持ち、本を書いた作家がいた。「復讐するは我にあり」などで知られる作家・佐木隆三さんです。復帰直前の1971年から2年間、沖縄で生活し、時代の大きな変化を見つめました。
佐木隆三さん「沖縄女性達がアメリカ兵との手紙というか、あるいは国際結婚の手続きを(仲間さんの事務所に)お願いしに来ていて、それに丁寧に応接している姿が私には大変興味深かった」
そんな佐木さんと仲間さんが復帰40年の節目のきのう、久しぶりの再会を果たしました。さっそく昔の思い出話に華を咲かせる二人。話題は仲間さんの翻訳事務所が一番の賑わっていた時代の話になります。
仲間さん「だいたい2~3人は(ここに)座っていました。ず~っと(翻訳の順番を)待って。そういう時代がありましたよ。特にベトナム戦争がひどかった頃は。時々ありましたけれどもね。送られてきた手紙の便箋が、赤土に染まっているのが時々あったんです」
それは戦場からの送られてくるラブレターでした。
仲間さん「死んだという知らせは受けたくないんですよ。誰でも」
アメリカ軍統治下の時代、沖縄は朝鮮戦争やベトナム戦争などアメリカの極東最前線の基地として使われ、沖縄で出会った恋人達には「戦死」による悲しい別れもありました。
仲間さん「時代だなという感じはありました。世界の大国アメリカが、僕は大国というけれども、かわいそうな若い青年達を生んでいる。この現実を本当は糾弾したいです」
沖縄で暮らし、復帰運動にも参加した作家・佐木隆三さん沖縄にとって、復帰とはいったい何だったのか、疑問を投げかけます。
佐木さん「(復帰前)本土で叫ばれていた“沖縄奪還”という言葉がありまして。沖縄を(本土の側が言う)奪い返すというのがどういう感覚なのだろう。沖縄の人たちが祖国復帰運動を進めていく、応援をする立場でありながら、沖縄奪還という言葉は間違っていると私は強く感じましたね」
沖縄のための復帰ではなく、日本本土が再び沖縄を利用するための復帰だったのではないか…。沖縄を奪還したのは誰だったのか、沖縄自身ではなかったのか…。そんな問いかけをした、作家の佐木隆三さんにきょうはスタジオにおこしいただきました。よろしくお願いします。