かつて先人たちが沖縄の祖国復帰を願って繰り広げられた海上集会。43年ぶりに開催された集会には、復帰を知る世代と知らない世代、そして沖縄のためにと立ち上がった与論の人たちの姿がありました。
叶サカエさん「沖縄の方たちのことを考えると、こっちも必死になって。何がなんだかわらないぐらいがんばりました」
当時の思い出を語るのは、婦人会長として海上集会に参加した叶サカエさん(81歳)です。
1963年4月28日、日本復帰を願う沖縄の人々は、分断された北緯27度線に船を漕ぎ出し、本土側の人々と手を握り会いました。その海上集会を盛り上げたのが与論の人たちだったのです。
アメリカ軍の施政を味わった経験のある与論の人たちにとって、目と鼻のさきにある沖縄の復帰は、他人事ではありませんでした。
叶サカエさん「(米軍の警戒船に)27度線越えたと言われても、こっちは夢中ですから。そんなものは、聞かないですよね。一生懸命やって、2時間ぐらいしましたかね。へとへとになるまで、船酔いしちゃって」
この時期の海は荒れることが多く、その高波の中、アメリカ軍の警戒船が監視し続ける海上でアピールをし続けたのです。
4月28日海上集会当日、会場には海上集会を追体験しようと参加した親子の姿がありました。青山義雄さんと貢さんです。
義雄さんの父・先則さんは、かつて海上集会に参加。当時国頭村に住んでいた甥と再会を果すため、国境で分断された海上へ自分の船を漕ぎ出し臨みました。
青山貢さん「物心つく前に(祖父は)亡くなっている。親父からそういう話も聞いていないので、きょうをきっかけにそういうものが聞けたらいいなと思いまして」
その会いたい人は、父親が再会した青山恵昭さんです。
当時と船の性能や大きさは変わっているものの、国旗を掲げ、北緯27度線を目指しました。(与論側75人15隻、国頭側10隻65人)
当時は国境だった北緯27度線。分断された人々が復帰を願って交わした握手。今回は友好の絆の証として、固く握手を交わします。
青山恵昭さん「とても素晴らしい海上集会だったんじゃないですか。よかったと思います。懐古的なものじゃなくて、過去・現在・未来と結んでいく上での大きな接点だと思う。大きな節目になって“かすがい”っていうんですか、そういったものになったんじゃないですか?」
貢さん「あの時もこんなかんじだったのかなと感じることができた。自分の息子もいるので(復帰)50年のときには、息子を連れて行けたら」
与論に帰って陸上で行われた復帰行進。多くの親子連れが参加。当時に思いをはせました。。
参加者「どういう意味があるの?とかそういうことを言ってたので、一番最後に沖縄だけ残したから、みんなで沖縄を早く返してっていう運動しているんだよと。40年経ったから、また同じことをして、沖縄の人たちとまた良いつながりができたらいいんじゃないか。それを今日やるんだと」
海上集会の夜、国頭では辺戸岬で、与論では琴平神社の高台で、お互いに焚き火を燃やしました。
与論の参加者「沖縄とは昔から交流していたものですから、戦争のために切り離されてすごく残念でした。(参加できてどんな気持ちですか?)長生きしてよかった。本当によかったと思います」
復帰を知る世代知らない世代が先人たちの思いを辿り、平和を誓う新たな日となりました。
青山恵昭さん「うれしい。絆がぴたっとなった感じですね」