広島・長崎の原子爆弾の被爆者は今も全国に21万人いるとと言われますが、様々な理由でアメリカに移住した被爆者も現在もおよそ1000人いらっしゃるそうです。
メキシコに住む竹田信平さんという若い映画監督が、アメリカの被爆者を追ったドキュメンタリー映画を製作しました。。今、沖縄に滞在している監督のインタビューも交えてご覧ください。
山岡メイさん「私の名前は山岡メイです。3日間かからいましたが、やっと妹をみつけることができました。幸いなことに、妹は積み上げられた遺体の山の一番上にいました。妹の体は腫れ上がり、腕は切れてとれかかっていました。妹が遺体の山の中に埋もれていたら、みつけられなかったでしょう」
ブロードウォーター美幸さん「歩いて浦上の中に入っていったんですよ。そのときに見た風景が…。ちょっといいですか、すみません」「ありがとうホント、胸がすっとした、ありがとうね。ここに詰まってたずっと」
2009年当時、30歳だった竹田監督は、高校時代の同級生と二人で18人の被爆者を訪ねる旅にでました。雪のカナダからメキシコに向かって南下するロードムービーでもあり、等身大の若者が原爆という重い経験に向き合おうとする青春グラフィティの要素もあります。
「美由紀さんがさっき握ってくれたおにぎりを食べています」「味は?」「お袋の味がします」
先週末、沖縄を訪れた竹田監督は、沖縄大学である表現に取り組んでいました。上から下がっているのは、被爆者たちの声の模様・声紋。そして床には証言を書き起こした「証言のカケラ」を敷き詰めました
竹田さん「記憶のトランスファクターという名前の展示なんですよ。今回はどうやって記憶が一人の人からほかの人間に当事者から非当事者へ移行されるか。どのようにしてこういうものと向き合っていけばいいか、接点を持っていけばいいか。理解していけばいいか、継承していけばいいかって言うのがあると思うんですけど、それの方法を提示しているつもりです」
時間、空間に隔たりがある被爆者の体験をどう自分の中に落とし込むか。体験者が独りもいなくなった世代へ届く何かを模索する過程に、映画やインスタレーションがあるといいます。
参加した学生「ここでその人たちが話したわけじゃないんですけど、なんかでもその被爆者たちが僕はここにいるような感じがして。その、声の声紋があることで」
竹田さん「ダウンロードって言うのは自分のものとするというか、自分のシステムに落とし込むというか、そういう感じでタイトルをつけた。自分のレベルで、自分のシステムでヒロシマ・ナガサキというものをわかってみようという試みです」
瑞穂・リンゴ・スティーブンズさん「私の名前は瑞穂・リンゴ・スティーブンズです。もう、髪はぽそぽそ取れているし、見れたもんじゃないし、自分の親ながらそばにいくのが怖かった。父は『氷が食べたい、氷が食べたい』と。口の中は火傷じゃないですか。父親にそれを飲ませたら、おいしかったーってスーッと死んだんですよ。きょうはこれでいいですか」
胤森貴士さん「帰ってくるたびにお、父ちゃんの目玉はだんだん奥に、ほっぺたはだんだんこけていって。ある日、お父ちゃんがこういった。『たかし、お父ちゃんはヒロシマじゃなくて、母ちゃんがいるところにいく。男前になりたいから髪を切ってくれ』ってね。お父ちゃん、男前にしてあげるよって。切れないはさみを左手に持って、頭をこうなでて切ろうとしたときに、髪がパーッと抜けて『お父ちゃんごめんね』『いいよ、たかし。でも、おとうちゃんもう疲れたから…』」「中学校終わるときに仕事を探したけど、両親のいない子を引き受ける会社はなかった」
若松英治さん「2009年にいながら、何か1945年のあの日が、今起こってるよね、内らの心の中で」
竹田さん「3.11のあとに、フランスとかドイツに呼ばれてすぐに『フクシマにヒロシマ、何なんだ』と外からの観点を言われて。あんなに原爆とか受けたのに何で自分たちの手で放射能ばら撒いてるんだって」
各国で上映活動をする中で、当たり前のように「ヒロシマ・ナガサキ・そしてフクシマ」について問われるという竹田監督。唯一の被爆国がなぜフクシマにいたったのか。その問いは、私たち一人ひとりに向けられています。
原爆については「はだしのゲン」とか「ガラスのウサギ」とか、小学校時代に割とみんな通過した気でいると思うんですが、ここまでの生々しい体験に触れると、とても自分の中に落とし込む作業までできていない、結局学びきれていないから、核エネルギーの不幸を繰り返してしまった。
悲惨な話を聞くだけの表面をなぞる行為がネットサーフィンだとしたら、自分の心の中に動くプログラムを入れ込むことがダウンロードで、それが本当に過去から学ぶということなのかもしれません。