沖縄でのアメリカ軍のジェット機墜落事故と言うと宮森小学校の事故を思い出す人が多いのではないでしょうか?しかし、今から50年前のきょう、うるま市の川崎でも決して忘れてはいけないジェット機墜落事故が起きていました。
琉球大学教育学部・大城貞俊准教授「過去の出来事を共有することによって、沖縄の現在を、未来を考えるという」
今年10月、県庁で映画の制作発表会が行われた。描かれるのは、宮森小学校ジェット機墜落事故だ。
1959年(昭和34年)6月30日、うるま市石川。コントロールを失ったアメリカ軍のF100ジェット機が、授業中の小学校に墜落。パイロットは脱出して無事だったが、小学生11人を含む、17人の尊い命が奪われた。
事故後、学校には慰霊碑が建立され、毎年6月には宮森の記憶を語り継いでいる。しかし、この事故から、わずか2年後に同じ型のジェット機が再び墜落したことを知っているだろうか?
佐々木さん「第2の宮森が起こらなかったとは、誰も言えないかなと思います。だって本当に落ちると思ったんです」
当時、川崎中学校の1年生だった佐々木末子さん。事故の記憶は、今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
1961年(昭和36年)12月7日、午後1時45分頃。嘉手納基地を飛び立ったアメリカ軍のF100ジェット機が、離陸直後、操縦不能に陥ると、パイロットはすぐに脱出。無人となった機体は、炎をあげながら、うるま市具志川の川崎に方向を変え、街中に墜落。
この事故で当時26歳だった宮城文吉さんと、58歳の女性の二人が死亡。下校途中だった川崎小学校の1年生の男の子が顔に大火傷を負い墜落した機体は周囲に散乱し、近隣の家屋が全焼する大事故となった。
事故現場は、宮森小学校の現場のから約5キロ。すぐ近くだった。
佐々木さん「あの飛行機は落ちる~って言って皆逃げたんですよ」「もう、大パニックです」「落ちると思ったんです。自分達に向かって」
事故の時間、川崎小ではグラウンドに出て遊ぶ子ども達もいた。ジェット機は学校の手前300メートルで急に向きを変え墜落。弟2の宮森が起きていた可能性もあった。
川崎小学校の子どもたち「(Q.昔ジェット機が落ちたって知ってる?)いえ、聞いたことありません。」
大きな事故だったにも関わらず、地元でも知る人は、ほとんどいない。いったいそれは、なぜなのか。
宮城幸吉さん。事故後カメラで現場を撮影、そこには、全焼した自分の実家が写っていた。
宮城幸吉さん「石川に落ちて、また川崎に落ちて、またヘリコプターも落ちたし、しょっちゅうこんな事があったから、また嘉手納にはB52が落ちたりして、もう感じなくなってしまったんですよ。とにかくしょっちゅうこんなことがあるもんだから。」
事故のおよそ半年前には、川崎小学校のグラウンドのそばにアメリカ軍のヘリコプターが墜落していた。
アメリカの統治下で、まるで日常的に起きる事故に県民の感覚は麻痺し、諦めの気持ちが強かったのではという。
宮城幸一さん宅「このブロック塀がこんな感じになっている。ここなんですよ」
当時の写真のまま残るブロック塀。事故の日、幸吉さんの兄、宮城幸一さんは、家族の安否を心配しながら、急いで仕事場から駆けつけた。
宮城幸一さん「自分に“落ち着け落ち着け”と言い聞かせながら、家まできて、ここに来たら家は全部焼けてしまっていたものだから。(Q.家族の姿を見つけた時は?)いやもうこみあげてきて、言葉が出なかった・・・。」
宮城さんの一家は奇跡的に全員難を逃れたものの、隣に住んでいた親戚の宮城文吉さんは死亡。母の八重さんも火傷を負った。
地元の議員だった又吉清喜さんは、生前、八重さんに、地元で慰霊祭をしたいと相談。しかし・・・
又吉清喜さん「ところがね、お母さんは“せいきさんよ”と涙を流しながら“ありがとう。でもそんな事をしたら、文吉を思い出すから。やめてくれ。”という言葉があったのでそれで、私は何もしなかった。」
宮城さんの妻「(八重さんは)絶対口にしなかったです。あのお母さんは、文吉の事は一言も言わなかった。」
風化する川崎の事故の記憶。その背景には、遺族を気遣い、周囲が口を閉ざしてしまったこと、また、墜落現場は、現在も個人の所有地で、場所が特定されると困るという地主への配慮があった。
宮城幸一さん「(Q.あれから50年というのはどうですか宮城さん?)毎日のように、激しい時には5分か10分越しに飛行機は飛んでいるものですから、これが見えなくなるまで、睨みつけているんですよ今。」
ここに復帰の年、1972年から2007年までに起きたアメリカ軍の航空機事故の県の記録がある。35年の間に、459件の墜落や不時着などの事故を起こしていて、平均すると、年に13回も事故を起こしていることになる。沖縄の空は決して安全ではないのだ。
佐々木さん「何も変わっていないです。(米軍機は)飛行機は飛び続けています。ずっと飛び続けている。この飛び続けている実態が何も変わらない」
何も変わってはない沖縄の空。さらに来年アメリカは、すでに欠陥機として指摘されているオスプレイを配備しようとしています。50年前の川崎の事故が今に訴えるもの、それは変わらぬ危険への警鐘です。
私達の取材をきっかけにして、川崎では、事故の記憶を語り継ごうと区民が証言集の編纂に取り掛かることを決めました。忘れないことが力になります。