Qリポートです。きょうは大きな夢を持って福島の高校に進んだ那覇出身の高校生についてです。半年前、福島の高校で授業中に被災した比嘉怜羅さん。現在那覇の高校に通う彼女の決意を取材しました。
比嘉怜羅さん、17歳。小学校5年生でゴルフを始めた比嘉さんの夢はプロゴルファーになることです。
1年半前、福島の富岡高校に進学した比嘉さん。ゴルフの充実した施設・環境に惹かれました。(進学した福島県立富岡高校は充実した環境を誇るゴルフの強豪校)しかし…
怜羅さん「(体育館の)照明灯っていうんですかね、それが何十個って落ちてきて」
授業中に被災し、沖縄に戻って来られたのは震災から4日後のことでした。
富岡高校と福島第一原発との距離はおよそ10キロ。今は学校はおろか町の中にも防護服なしでは入ることができません。
怜羅さん「フラッシュバックっていうんですかね、そういうのがずっとありました」
母、裕子さん「あまり表にも出られないですし、知り合いと会うと地震のこと聞かれちゃうから、私の背後から歩くような感じで」
震災から1ヵ月後。比嘉さんは那覇市内の高校に通い始めました。
怜羅さん、友人との会話「なったよ、なったよ、沖縄に戻ってきて、黒くなった」
現在の高校には中学時代からの友人もいます。恐怖心は学校生活の中で次第に和らいでいきました。
そして、彼女を救ったものがもう1つ。それは、富岡高校のユニフォームでした。
6月、富岡町への一時帰宅が許可された際に母、裕子さんが学校の寮から持ち帰ってくれたものです。
怜羅さん「1番取って来てほしかったものなので。(練習への気持ちが)違います、雰囲気とか。1年間使ってきたものなので」
比嘉さんは沖縄で夢に向かって練習を再開させました。
母、裕子さん「高校生活も充実していて楽しんでいたので、沖縄で卒業してくれるだろうと思ってたんですね」
安心した母の思いと、比嘉さんの思いには少し違いがありました。
怜羅さん「ううん、変わんないよ」
富岡のゴルフ部の友人とは今でも毎日のように電話で話します。福島への思いは消えることはありませんでした。
怜羅さん「原発は収まらないし時間だけが経っているんですけど、でもそれでもゴルフ部は前に進んでいるし、早く加わりたいと」
比嘉さんは福島に戻ることを考えていました。
母、裕子さん「何度もこの話しはするんですけど、お母さんが死んだと思うんだったら行きなさいと、それ位心配して祈っていたあの苦しみ、わからないのって」
反対する母の言葉も、思いを変えることはできませんでした。
現在、福島と静岡の5つの学校の協力をもとに授業を再開させている富岡高校。
比嘉さんが転校する予定の福島北高の校舎でも毎日放射能の測定が行われ、その数値は1マイクロシーベルト以下。現在は授業も部活動も再開されています。
5つの学校に分かれた生徒たちですが、7月には「富岡高校の集い」を開催。「富高は1つ」復興をめざし、その絆はより強まっています。
怜羅さん「福島は少しずつだけど復興していて、私たちもそれに負けない位ゴルフ部も復興に向けてがんばろうということで。少しでも何かできれば良いなって思って行くことを決意しました」
母、裕子さん「ある方には親のエゴで行かせるんじゃないってことも言われましたけど。本人が私の人生だからもう1度出発したいって思いが強かったので」
怜羅さん「(行かなかったら)後悔します、絶対」
11月には富岡高校の一員として全国大会をかけた東北予選に出場する予定です。今の目標はゴルフで福島の復興を後押しすること。比嘉さんは来月沖縄を発ちます。
お母さんの気持ちは痛いほどわかるし、高校生にとっての自分の学校・仲間、それもかけがえのないものですからね・・・
富岡高校の先生とも電話でお話したんですが、復興に向けてみんなで進んでいる様子が伝わってきて早く仲間とがんばりたい比嘉さんの気持ちもよくわかります。
富岡高校の生徒たち、12月には全員で沖縄に修学旅行に来るそうです。その一員としてまた那覇で元気な姿を見せてくれるといいですね。