どんなに歳月が流れてもその深い悲しみが癒えることはありません。うるま市の宮森小学校にアメリカ軍の戦闘機が墜落し、児童11人を含む17人が犠牲になった事故から30日で52年となり、小学校で追悼式が行われました。追悼式には、宮森小学校の児童や遺族などおよそ500人が出席しました。
この事故は1959年6月30日、アメリカ軍の戦闘機がエンジントラブルを起こし、うるま市の宮森小学校に突っ込み、17人が死亡、200人以上がケガをしました。その事故から52年の追悼式。
しかし、校長の挨拶の途中に戦闘機の騒音が・・・「大切な家族を失った遺族の深い悲しみ、やり場のない憤りは52年経った今でも消えることはありません」戦闘機の騒音で挨拶の声がかき消される場面も見られました。
遺族には、事故から17年も経って後遺症で息子を亡くした女性がいました。遺族の新垣ハルさんは重いやけどを負いながらも懸命に生きた息子のことをこう語っていました。「もう6月に入るたびに思い出して・・・」「良くやってきたねと思っている。とても努力家だったから」「(Q・晃さんはどんな息子さんでしたか?)とても良い子でした。お母さん思いで」と話していました。
また当時の担任と遺族のやりとりはそれぞれの心に残した深い傷を思わせました。(静先生)「ごめんね、正行を…。」(春代さん)「いいえ、先生のことじゃないよ。アメリカのジェット機が憎らしい、本当に」(静先生)「私はミルクを注ごうとしたんだよ。そのミルクを飲まないうちに、行っちゃった、ごめんなさい」(春代さん)「また飛んでるねーと思って。とても憎らしいし、いくら泣いても帰ってこないでしょ」「本土政府とアメリカは聞いてくれないさ、どうしたら良いかねって泣いてばかりいる」と話していました。
遺族たちが忘れたいと思っていた事故。しかし風化させてはならないと2年前に遺族や当時の教職員たちが「宮森630会」を結成し事故を語り継いでいます。空を飛び交う戦闘機と遺族たちの姿は変わらない沖縄の現状を象徴しています。
また、宮森小の墜落事故を通して、沖縄の基地問題について考えてもらおうと、西原町の中学校では、30日からパネル展が始まりました。これは、宮森小の墜落事故を体験し、現在は、西原中学校で校長を務める平良嘉男さんが企画したものです。
会場には、事故当時の現場の惨状を伝える新聞や写真、事故の理不尽さを訴える絵や詩のほか、2004年の沖国大のアメリカ軍ヘリ墜落事故の記録も展示されています。
平良さんは、宮森小の事故を知らない世代にも、当時から現在まで変わらない基地の島沖縄の現状を知ってもらい、平和について考えてほしいと訴えます。
平良校長は「もう2度と、沖国大も起こったわけですけども、もうこれ以上起こさせてはならない。そういった思いを持っております。」と話していました。パネル展は、8月31日まで開かれています。