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慰霊の日シリーズ「語り継ぐ沖縄戦2011」。きょうは、ある「歌」についてお伝えします。

ひめゆり学徒として、熾烈な戦場に送られた沖縄師範学校女子部と第一高女の生徒たちは戦後ずっと、ある思い出の歌を歌い続けています。その歌は、ひとりの若き軍人が詩人として、彼女たちのために残した絶筆でもありました。

「目に親し 相思樹並木 往きかえり 去り難けれど…」

宮城先生「66年前の6月15日、私はこの近くの第一外科壕にいました。きょうは何があった、きょうは何があったと、66年過ぎてもつい(昨日の事のように)頭に浮かびます」

66年前の6月。学徒隊として動員されていた沖縄師範学校女子部と第一高女の生徒たちは泥沼の戦場を逃げ惑い、多くの生徒たちが命を落としました。

その数ヶ月前、生徒たちは夢中で一曲の歌を練習していました。66年前の卒業式で歌われるはずだった「別れの曲」は、いまも資料館で静かに流れています。

当時の音楽教師、東風平恵位さんが作曲したこの歌の歌詞はあるひとりの陸軍少尉が「相思樹の歌」と題し、生徒たちに送ったものでした。

福島県出身の太田博さんは学生時代から詩作の才能をみせ、卒業後は詩人・西条八十の詩誌に何度も入選するほどでした。沖縄戦前夜、陸軍少尉として沖縄へ赴任した太田さんは防衛や陣地構築の指揮にあたります。

太田さんが小隊長をつとめた高射砲隊に、当時少年兵として入隊した渡口さんは、太田さんと直接話す事はなかったものの、陣地構築中のある出来ごとで、太田少尉のことを鮮明に覚えていました。

渡口さん「少尉殿が作られた詩をね。牧志美童瞳で惚れる、何と言いますか、平和的で愛情のこもった歌でしたよ。(Q今でも口ずさむことは?)できますよ。そうですか、じゃ♪牧志美童一目で惚れる、あれは高射砲の兵隊さんよ、粋で鍛えた一小隊、サノサッサ♪二番も歌いますか?」

渡口さんら作業する兵士たちに配られたのは、太田少尉が与那国小唄につけた歌詞のメモ。重苦しい作業中、兵士たちは大声をあげてその歌を歌いました。

渡口さん「その時だけは戦争というものを忘れて自分の立場も忘れ、やはり和やかに心いやす時間ができて大変良かったと思う」

刻一刻と沖縄戦の近づくさ中、街には多くの陣地が作られ学生たちまでもが作業に駆り出されていました。当時師範学校の予科3年だった島袋さんは、兵士の言付けで居残り作業をさせられ、学校に戻れずにいました。

島袋さん「言いつけた兵士が来て、そしたら太田少尉が怒ったんです。『学生さんは点呼があるんだぞ』って兵士は怒られてましたよ。そして太田少尉は『いいんだ、早く帰んなさい』と仰ったから、良かったと思って。太田少尉っていい人だねとか言って」

太田少尉が、自分たちのために詩を書きその詩が歌になったと知った時、生徒たちの喜びようはたいへんなものでした。

島袋さん「私たちが憧れていた太田少尉の作詞で、音楽の東風平先生の作曲と聞いたもんだから『そうなの?』と言って。その時はずっと軍歌ばっかり歌ってましたから、その歌を歌ったときは、枯れかけていた花に水を与えられたように、うーっとなりましたね。心に染みるというか、そういう気持ですぐ覚えてしまいました」

卒業式で歌われることになったその歌は、生徒たちの間ですぐに広まっていきました。1月のある夜、太田さんは作曲した東風平先生に連れられ、歌を聴きに寮を訪ねました。その夜の事を、津波古さんはいまもはっきりと覚えています。太田さんは部屋の外の廊下に立ち、じっと彼女たちの歌を聴いていたといいます。

津波古さん「私たちが一生懸命歌っている間も『気をつけ』です。もう本当に微動だにしない感じで、ずっと聞いていらして。私たちも夢中になっていますから、ときどき見たら、ちょっと泣いてるんじゃないかと思われる節もあったんです。感動してるというんですか、感受性の強い人だと思った」

しかしその二か月後、生徒たちは学徒隊として動員され、卒業式でその歌が歌われることはありませんでした。多くの生徒たちが戦場で亡くなり、太田少尉は24歳の若さで奇しくも、糸満市で戦死したと言われています。

本村さんはちょうど、その年に師範学校を卒業。卒業式で歌えなかった「別れの曲」の歌詞に楽しい思い出と辛い気持が交差します。

本村さん「三番が、これを歌うともう涙が出て歌えなくなります。それはですね“いつの日か再び会わん”というのがあるんです。何と云うんですか、もう“業成りて巣立つ喜び”はあるんですけど、またいつか会おうねと言ったのに戦争で会えなくなったという…。歌ったときに戦争の事、お友達の事が思い出されて」

太田さんの母校・郡山商業高校では、若くして沖縄で戦死した「軍人詩人」の名を残そうと、同級生や同窓会を中心に遺稿をあつめ、その足跡をたどってきました。

小野口さん「これが終戦の年の。沖縄の事もかなり書いてあります。ちょうど私が中学生のときの新聞。このなかに太田少尉の詩が載っている。このときは太田少尉は亡くなっているんですけどね」

遺稿集の編集委員をつとめた小野口さん。実家には、軍人であり詩人であった、太田少尉を紹介する記事が掲載された新聞が保管されていました。奇跡的に沖縄から故郷へと送られた最後の詩集「剣と花」には、防空頭巾をかぶって作業をする女学生たちの姿など、戦地沖縄での光景が描かれていたのです。

戦場にあり、軍人でありながらも人間としての心を失わず、最後まで詩人であり続けた太田さんの作品は、去年、遺稿集としてまとめられました。

常松さん「人間の本質とか真実はどこにあるかを常に探し求めていた。ひめゆり学徒隊の方々が高射砲陣地を構築している姿を見て、輝く叡智をみつけ、同時に自分の生涯のテーマとしていた”真実の姿”をひめゆりの方々の行動に見つけることが出来た。その自分自身の信念が実現できた喜びが、相思樹の歌に溢れているんじゃないかと私は受け取りました」

消えたかのように見えた思い出の歌、別れの曲は毎年6月23日の慰霊祭で歌われています。楽譜も歌詞も戦争で失われてしまいましたが、生き残った生徒たちは記憶をたどり、口伝てでこの歌を教え合いました。楽しかったあの頃のように。

島袋さん「『相思樹の歌』だったのに、それが『別れの曲』になってしまった。そこまでお考えになってなかったはずなんだけど、その歌が鎮魂の歌になった」

津波古さん「私たち、あのお部屋に行く時には、亡くなった人たちのお顔を見ながら『あのとき一緒に歌ったよね、この歌』と言いながら語りかけるようにしてる」

本村さん「みんなで歌っているという気持があります。これは自分たちだけが歌ってるんじゃないという感じがあります。みんな一緒だよ、という気持がありますね」