先月20日から宮古島市や名護市などで開かれたハンセン病市民学会。今まであまり表に出ていなかった、八重山のハンセン病の歴史を辿るツアーが企画されました。その様子を取材しました。
先月23日、石垣市で行われた八重山のハンセン病の歴史を辿るツアー。ハンセン病回復者や関係者など、およそ50人が参加しました。
大田静男さん「宮古とか本島はハンセン病の施設があるんですけど、石垣島にはない」
このツアーを企画した、石垣市に住む大田静男さん。
八重山では、なかなか地元のハンセン病の歴史が語られることはありませんでした。今回のツアーで大田さんは、政府が長年、ハンセン病政策として行ってきた隔離のもととなった「ある構想」が考えられていたことをツアーの参加者に伝えました。
大田さん「西表島を真ん中から仕切って、西は炭鉱があるのでそこはできないであろうと、東側は自分たちの『らい村』にしてしまおうと」
戦前、西表島に全国のハンセン病患者を集めて隔離する構想が持ち上がります。それが「西表島らい村構想」です。
大田さん「構想自体が実現されていたら、大変になる。それが結局は、らい予防法が廃止されるまでの隔離の原点というようなことではないかと」
構想を持ち上げたのは「救らいの父」と呼ばれた光田健輔医師でした。光田医師は、1916年9月から10月にかけて、八重山を訪れ調査。翌年、西表島がハンセン病患者を隔離するため候補地として国に報告書を提出します。
その内容は、西表島の東側を3つに地区に分けて第1から第3までの「らい村」を作り、各村に1万人ずつ、あわせて3万人を収容するものでした。しかし国は距離が遠すぎることやマラリアの撲滅に膨大な費用がかかるとして、結局、採用されませんでした。
大田さん「ここが、第一らい村の予定地だったところです」
西表島に到着したツアー参加者は、仲間川をのぼる観光船に乗り換え、構想の持ち上がった場所を船上から見学しました。
大田さん「実際にジャングルを見て本当にここに本当に『らい村』というものができたかということを、ほとんどの人は勘付いていた頂けたんじゃないか」
参加者「隔離政策を推し進める力の大きさと現場との過酷な現場の環境と違いというのを、目にすることができてとてもよかった」「一言で言うと衝撃的でした。どんな犠牲を払っても絶滅する病気という風に考えたこと自身が、やっぱり日本の政策の本質をあらわしている
日本の隔離政策の基となった「西表島らい村構想」。大田さんは、この過ちを繰り返さないためにももっと多くの人にハンセン病の理解を深めていきたいと訴えます。
大田さん「光田医師が構想していた、そして強制隔離が行われていたような非人間的なこと。これから過ちを繰り返さないというためにも是非、ンセン病に対する(問題を)啓蒙をしていく」