3月11日に発生した東日本大震災。福島県いわき市は津波によって甚大な被害を受けさらに原発の爆発事故で未だ地元に戻れない人たちもいます。その中で第2の故郷として20年以上いわき市で生活し、沖縄料理屋を経営する県出身の女性を追いました。
福島県いわき市。3月11日、未曾有の大地震が東北を襲いました。いわき市の沿岸部、久之浜町。この街を直撃した大津波は、一瞬にして街の様子を変えてしまいました。50年以上この街に住む住民にとっても、想像を絶する光景だったと話します。
住民「家内が庭先に出ていたんですが、突然の呼びかけに驚いて外にでましたところ、この道路の端までも津波が。瓦礫を含めながら、ガチャガチャという音を立てながらゆっくりとしたスピードできました。びっくりしながら走りながら、後ろを見ながら、本殿を見ながら国道に向かって逃げた」
その後、福島第一原発の爆発事故が発生。地区全体が屋内退避区域となりました。先月11日に避難地域は解除されましたが、ほとんどの住民が今でも避難所で生活してます。
住民「やはり原発の収束の状況とか線量の下がり具合を見ながらの生活をしているので、地域の方々は不安な状況で生活をしています」
男性は、この地域の人たちが不安で厳しい状況で暮らしていることを知ってほしいと訴えます。
住民「こういう被害があって、厳しい生活をしているということも皆さんに同じく共有していただきたい」
いわき市に住む、上間キミ子さん。上間さんは読谷村出身、福島に来て20数年になります。震災当日、自宅で大きな揺れに襲われました。
キミ子さん「震度3か4は結構あるから、いつも同じだったと思ったら収まらないし、これは大変だと思って。表に出ようと思ったけれども、震えて表に出れるような状況じゃない」
部屋の中ではテレビや壷などが落下。破片が散乱し、足の踏み場も無い状態となりましたが、幸い家族6人は全員無事。家も壊れませんでした。しかし、上間さんが経営する沖縄料理店は愕然とする状況になっていました。
キミ子さん「店行ったらもうゴチャゴチャで、とんでもない。8割ぐらいはボトルもキープボトルも割れていて、片付けはちょっとやそっとじゃ無理だなぁと思って」
さらに追い打ちをかけるように、原発の爆発事故が発生。上間さん一家はひとまず沖縄への避難を決めました。
キミ子さん「小さい子はこれからだから。もし万が一何かあったときに、これからどうしようねぇってとか、病気とかになったらどうしようとか、それが一番心配」
しかし避難先の沖縄で、福島の知人や馴染みのお客から電話を受けているうちに、これまで支えてくれたこの人たちを今度は支える番だと思い、上間さんはいわき市に戻ることを決心しました。
キミ子さん「『ママ戻ってきて』って。やっぱり何かの役に、自分だけじゃないからと思って。『やっぱり帰ろう』と」
お客さんもみんなに支えられて今の自分があるわけだから、そういう人たちのためにもがんばらないと
沖縄から戻り、営業を再開した上間さん。しかし、震災前のような客足がすぐに戻ったわけではありませんでした。
キミ子さん「帰ってきたばかりの頃は、本当に(街に)人が歩いていなくて、これでやっていけるのかなぁと思った。最初の4,5日は、来るお客さん1人とか2人とか」
しかし、最近、営業再開を聞きつけ、避難所からも常連の客が訪れるようになったといいます。
キミ子さん「避難所からもきます。広野とか楢葉とかねぇ、大熊とお客さんもきていた。そういう人たちが、避難所からくるお客さんがいます」
震災を体験して、人の温かさと人とのつながりの大切さを改めて感じた話す上間さん。今、被災者に必要なものは心のつながりだと訴えます。
キミ子さん「物資はいろいろあると思うので、歌とか、みんなの心に響くような何かをしてもらえればいいと思います」
原発事故の状況。そして復興への道のり・・・。緊張とストレスを抱えながら生活する被災者の心の支えになりたい。上間さんが、きょうも店を開く理由です。