那覇市久茂地にある、日本銀行那覇支店の旧店舗が、先頃、民間に売却されました。本土復帰の一つの象徴でもあったこの建物が姿を消そうとしています。
日本銀行那覇支店が開店したのは、沖縄が本土復帰した1972年5月15日。39年の時が流れました。本土復帰以来、沖縄経済の発展を見つめ続けたきた日銀那覇支店。支店機能は新店舗に移ってはいますが、いよいよ旧店舗が取り壊されることになりました
那覇支店が開店と同時に取り組まなければならなかったのが、市民の持つドルと円を交換する「通貨交換」。世紀の大事業と言われた「通貨交換」の現場を指揮したのが、当時那覇支店次長を務めた堀内好訓(ほりうちよしくに)さんです。
通貨交換を前に、支店長からは、こんな言葉をかけられたといいます。堀内氏「君たちは本店を向いて仕事をするな。沖縄を見て仕事をせよと。100%沖縄を見て仕事をしろと」当時の支店長、荒木文雄さんは、戦争末期、鹿児島の特攻基地で沖縄からの打電を受信した人物です。
それは、海軍壕で自決した大田実から発せられたものでした。「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」偶然とはいえ、那覇支店長となった荒木さんには、特別の思いがあったに違いありません。荒木支店長の下、手探りの開店準備が進みました。一体、円はいくら用意すれば足りるのか。
堀内氏「沖縄全体で通貨がいくらあるのかということがね信頼できるデータがないんですよ。つまり、中央銀行がないでしょ」
財界など関係者の意見を聞きながらはじき出した答えは、1億ドル=360億円。余裕を見て、1.5倍の540億円を運搬することになりました。4月27日早朝に東京・芝浦港を出た輸送船は、5日間の航海を経て、5月2日朝、那覇軍港に到着します。
堀内氏「ああ、来たなぁというのを、明け方ね、だんだん薄明るくなってくるところに、マッチ箱みたいに、こう2つ、浮いたわけです。ああ、来たってわけでね」
何とか沖縄まで運ばれた巨額の現金。しかし、ここから那覇支店までは1キロ余り。陸路の運搬には危険が付きまといます。結局、米軍や琉球警察の警備のもと、5台のトラックが那覇支店との間をピストン輸送しました。
信号機はすべて青にし、ノンストップで後の国道58号を2日間、疾走し続けました。この時、540億円の現金が運び込まれたのがこちらの金庫です。扉の厚さは90センチ。一歩足を踏み入れると、小さな体育館ほどの広さがあります。
日銀の金庫は、現金をただ安全に保管するだけでなく、人が中で安全に作業するための空間でもあるのです。
堀内氏「屋良主席がね、一度お見えになったことがあるんですよ」「金庫の扉の所でね、ずーっとこう中をご覧になって、あー、これが金庫ですかなんて言ってね」
そして迎えた、5月15日。県内190か所の窓口で通貨交換が始まりました。期間は6日間。一体いくらのドルが持ち込まれたのか。
堀内氏「結果的にはね、1億300万ドルだったんですよ」「1億300万ドルで固まったというのを聞いたときはみんなワーッというような感じでしたね。よかったなぁと」
堀内さんたちの推測との誤差は、300万ドル、わずか3%。通貨交換は無事、終了しました。
堀内氏「開店の日の感激とかね、その時の状況などは今もまざまざと思いだすもんですから、そういうところの建物がなくなるのはさびしいことはさびしいですね」
旧店舗は、携帯電話会社の沖縄セルラー電話に買い取られ、近く、本社ビルとして生まれ変わることになっています。