きょうは1年間お送りしてきた「オキナワ1945 島は戦場だった」の最終回拡大版でお伝えします。QABでは戦後65年目を迎えた今年、戦争を体験した方々の高齢化が進む中、戦争を知らない私達の世代があの沖縄戦をどうやって継承していけるのか。その焦りと思いが、この企画をスタートさせるきっかけでした。
65年前の1年間の毎日を振り返ることで、沖縄戦を、そしてあの時代を追体験し「基地の島」沖縄の原点と今に残されている問題を見つめてきたつもりです。
オキナワ1945〜島は戦場だった〜最終回。きょうはクリスマスイブですが、65年前の明日、クリスマスの日、沖縄戦の年に終わりを告げる祝いの舞が披露されます。悲しみをこらえ、かじゃでぃ風を踊ったのは、戦争によって子どもの命を奪われた男性でした。
『きょうの良き日はいったい何にたとえられようかまるで花の蕾が朝露を受けて開くようなものである』
「かじゃでぃ風」琉球古典音楽を代表する祝いの曲が終戦の年、12月25日に披露されました。舞を舞ったのは戦前から舞台俳優として活躍し組踊の復興に尽力した島袋光裕。
国立劇場横にある「組踊先達顕彰碑」を案内する光裕さんの息子の島袋光晴さん。
島袋光晴さん「きょうの喜びは何に例えようと、まさに今打ちひしがれている時代の新しい開花をするんだというような、あの歌詞の通りだと。私はあの気持ちで(父は)あのかじゃでぃ風を舞ったんじゃないかなと」
1945年12月25日。うるま市石川の城前小学校グラウンドで開かれた「クリスマス祝賀演芸大会」。
光晴さん「あれもう凄かったですよ。お客さんの入りが。あれだけのグラウンドに、いっぱいですから」
舞台を仕掛けたのは、沖縄の教育や、芸術文化の復興に尽力したハンナ少佐。戦争で打ちひしがれた人々の心を癒し、戦後復興へ歩みだすためにと開かれた舞台でした。
当時小学生で、会場にいた光晴さんには忘れられない記憶があります
舞台で上演されたのは、組踊「花売りの縁」。生き別れの親子が再会するというストーリーです。その舞台を観ていた人々にある異変が起きます。
光晴さん「客席で観ている方々がですね、何で泣いているのかなと。何かね。声も聞こえましたよ(すすり泣くような)」
島袋光裕の回顧録にもその場面が記されています。戦争で家族や知人を失った人なのか・・・それとも、未だ家族に会えない人々だったのか・・・親子が再会を果たす場面では、会場のいたるところで嗚咽が聞こえたといいます。
光晴さん「白いハンカチのような物を出してね。まぶたを押さえているのが見えたんですよね」
「花売りの縁」の舞台に立ち、子役を演じた島袋初子さんもその時のことを鮮明に覚えています。
島袋初子さん「なんかたまに観客に目をやると、観ているおばちゃんたちが泣いているのを見るともらい泣きしそうな気持ちだった。あれを見ていると。だって立とうともしないし、じーっと座ってね観て。もらい泣きしよったですね」
およそ3ヶ月にわたった沖縄戦。20万人あまりの人々の命が失われ、そのうち約9万4000人の住民が犠牲になりました。
クリスマス演芸大会の幕開けを飾った祝いの舞かじゃでぃ風を踊る島袋光裕もまた、戦争で息子二人、娘二人を失っていたのです。数ヶ月前におきた子ども達の死。それでも、島袋はかじゃでぃ風を舞いました。
光晴さん「おそらく心では泣いていると思います。ただ表に出さないだけの話であって。むしろ自分の亡くなった子ども達に対して、俺もまだ頑張っている。お前達も観ていてくれよという気持ちにもなったのではないか」
舞う島袋光裕の目は遠く一点を見据えています。そこには、沖縄戦を痛み、復興を誓う決意がこめられているようにも見えます。
今年は組踊が「ユネスコ無形文化遺産」に登録されるという嬉しい出来事もありましたが、65年前の明日12月25日に、その原点を見ることも出来ます。