※ 著作権や肖像権などの都合により、全体または一部を配信できない場合があります。
News Photo

戦場だった65年前のこの頃、戦争で親を失い孤児院で生活していた少年が里親に引き取られました。

宮城定吉さん「おどおどして、大人の顔色うかがって生活していた。ずっと」

沖縄戦で親を失い、身寄りのなかった宮城定吉さんは65年前のこの頃まで、コザ孤児院に預けられ暮らしていました。

うるま新報には11月21日,28日,12月5日と一週間ごとに、コザ孤児院に収容されている子どもたちの「身寄りを求む」という記事が掲載されました。およそ400人いた子どもたちは次々と里子となり、施設を離れていきました。

与那原の家庭に引き取られた宮城さん。孤児院では、常に空腹と闘っていたといいます。しかし、ここでは食べ物に不自由することはなかったと振り返ります。それでも—

宮城さん「普通おかわりなんかあるでしょ。おかわりしないわけ。物心もついているし、親もいないということをわかっているから遠慮もあるし」

自分の気持ちを押し殺し控えめな少年だった宮城さんは、他の兄弟と同じように学校に行くことはできませんでした。

宮城さん「向こうの子どもたちは学校に行くわけでしょ。僕はおばさんと一緒に、みんなが学校に行く頃になるとすぐまた畑仕事に行っていた。学校に行きなさいとは言わないし、自分から言い出せないからね。結局丸2年学校に行かなかった」

戦後の混乱で十分に学べなかった思いが、その後、宮城さんを駆り立て、判事の道へと進ませたのです。