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10月頃から芸能関係者を石川収容所に集めたアメリカ軍は、この頃から本格的に芸能による戦後復興に力を注ぎ始めます。

うるま市立石川歴史民俗資料館に常設展示されている手作りの紅型。アメリカ軍から支給された布や穀物袋などを再利用して作られた着物や小道具は、この頃に県内各地から集められた芸能関係者の手作りによるものです。

平良敏さん「楽しみはこれしかないですからね」

集められた芸能関係者の一人で、戦後初の芸能団体・松竹梅劇団の「竹」劇団、団長を務めた平良良勝さんの次男、敏さんは戦争によって沖縄の芸能関係者の立場も大きく変化したと語ります。

敏さん「アメリカさんが沖縄の芸人の地位を固めてくれた、高めてくれた。これまで芸人というのは非常に蔑まれていた。ところがアメリカでは“芸人は俳優。大統領と同じくらいの給料をもらっているんだ”ということで高い給料をあげようとしたが、後の琉球政府の幹部が押さえ込んだみたい」

集められた芸人には住宅が与えられるなど、父・良勝さんらは収容所内でも特別待遇を受け驚いたと言います。

1945年12月には、諮詢会文化部主催による初のクリスマス演芸大会を予定していたこの頃、その舞台を手がけるスタッフには現在の沖縄芸能の礎を築いたそうそうたる人々が顔をそろえていました。

敏さん「アメリカさんの政策だったかもしれないけれども、これ(芸能)があれば、沖縄の民衆も安定させられると考えたというのは、芸能に対してアメリカ人はそれなりの見識を持っていたんじゃないですかね」