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戦争で多くの同僚を失った元県職員たち。慰霊碑建立の動きが次第に高まっていきました。
沖縄戦最後の激戦地・糸満市摩文仁にある島守の塔。65年前の今頃はまだ砲弾の跡が生々しく残り、多くの亡骸が横たわっていたこの地に、元県職員らが慰霊碑を造ろうと少しづつ動き始めます。中心になったのは元沖縄県人口課長の浦崎純さん。元知事官房の板良敷朝基さんはこう振り返ります。
板良敷さん「誰はどこで死んだよと、亡くなった人たちの話をしていた。顔を合わすとその話で。人口課長をして疎開の事務を執っていた浦崎純さんが、塔を建てようじゃないかと号令をかけた。みんなそうだということで」
戦死した県職員468人をまつった島守の塔。1951年6月に行われた完成式典には呼びかけ人の浦崎純さんや島田知事の家族、そして板良敷さんも出席しました。
川上ヨシさん「なんとも言えない、涙が出てしまって」
島守の塔ではきのう11日、島田知事の出身地・兵庫県主催の慰霊祭が行われました。
島守の塔には県民のため、最後まで職務を全うした県職員たちの志や平和への思いを引き継ごうと、今も全国から多くの人が訪れ、祈りを捧げています。