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8日の日曜日に、北谷町で「北谷うーんな」と呼ばれる大綱引きがありました。「北谷うーんな」は12年に1度、寅年のときにだけ開かれるそうです。その伝統はどのように受け継がれていくのか、山城記者です。

北谷町で12年に一度開かれる大綱引き「北谷うーんな」。子どもからお年寄りまで、あらゆる年代が参加し、大いに盛り上がりました。

子ども「楽しかったです(Q:12年後もやりたい?)やりたいです!」

この大きなイベントを成功させるために、たくさんの人の努力がありました。

大綱引きで使われる綱は、わらを一本一本つないでいくことから始まります。12年に1度の行事だけに、綱打ち作業は経験を持った先輩たちの指導をうけながら進められました。

綱引きの前に行われる道ジュネーは5月からほぼ毎晩、地域の小学校に集まって練習しました。

北谷うーんなが始まったのは、いまからおよそ300年前といわれています。

北谷にはかつて、北谷、伝道・玉代勢の北谷3ヶ村と呼ばれる地域がありました。3ヶ村では長年不作が続いていた時、ようやく寅年に雨が降って豊作となり、それを盛大に祝ったことが「うーんな」の始まりと伝えられています。

しかし65年前の沖縄戦によって多くの被害を受けた上、その後はアメリカの施政権下におかれ、3ヶ村には広大なアメリカ軍基地が作られました。伝統のうーんなも途絶えてしまったのです。

それが復活したのは36年前。戦争を生き延びた旧3ヶ村の出身者が集まり、うーんなの復活を呼びかけました。

現在の北谷町。多くの若者が集まり、街の様子も変わりました。

お年寄り「昔は田んぼなんかあって、藁なんかも自由に使えたけど、今はもう田んぼもなくて苦労はしています。(Q:一番難しいのは何ですか?)人間を集めるのが一番大変。何名集まるかそれがわからないから」

男性「仕事の都合で練習とか行く時間がなくて無理だった」

田畑が少なくなった現在の北谷町では、わらを集めるのも難しい。それだけでなく、12年に1度の「北谷うーんな」には、これまでのうーんなを知る経験者が少なくなっていることなど、人集めの問題もある。

伝統の継承が新たな課題にぶつかる中、3ヶ村の誇りと伝統を繋いでいこうとする若い人たちがいます。

伝道出身の夫との結婚がきっかけで、今回が初めての参加という伊礼若菜さんは北谷に住んで3年。職場で見たパンフレットを見て参加をきめました。

伊礼若奈さん「まったく知らなかったんです。この地域でこの綱引きがあるっていうことを。嫁いでも」

初参加で戸惑うところもあったといいますが、鐘を鳴らして歩く「ソーグー」に参加する夫とともに、この祭りを支えます。

伊礼若奈さん「おじぃちゃんたちがずっと綱打ちをしてたりだとかを見てると、ご先祖様からずっと受け継いできたものなんだ、これはまた次にバトンタッチしようと。この姿がもう心打たれるんですね。自分の代で、ここでストップしたらダメ」

知念政朗さん「僕は今回で3回目です」

小学校低学年で復活から2回目の「うーんな」に参加した知念政朗さん。今回は玉代勢の旗頭を勤めます。

知念政朗さん「やっぱ引き継いでいかないといけないというのはあります。前回の20代のころはこの気持ちはなかったんですけど、30代になって、やっぱり自分たちが盛り上げないといけないんじゃないかという気持ちはあります」

それぞれの想いがひとつになり、いよいよ本番を迎えます。

知念政朗さん「やっぱ最高でしたね。最高だったってことだけですね。自分は例えば12年後にそういった人たち(来れなかった人)にも声かけていけて、向こうも反応してくれたら、自分の思いに応えてくれたらいいなという、そこまで自分も大きくなりたいなと思っています」

伊礼若奈さん「とっても楽しかったです。12年後ですか?12年後も頑張って、私も体が元気なうちに綱引きに参加して、子どもたちも一緒にまた次へとつないでいきたいと思っていますので、12年後も頑張ります」

一度は途絶えてしまった伝統行事「北谷うーんな」。地域を大切に思う人々の力で復活した祭りは、こうして次の世代へと受け継がれていきます。