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65年前のきょう、長崎に原子爆弾を落としたアメリカ軍。この最悪の任務と沖縄は無関係ではありませんでした。
65年前のきょう、アメリカ軍は長崎市の上空で原子爆弾を投下。午前11時2分、高度およそ500メートルで原爆は炸裂し、凄まじい爆風と猛烈な熱で、7万3884人の命を奪いました。
原爆を落としたのはB29「ボックスカー」。爆撃の第1目標・小倉が厚い雲に覆われていたため、3度試みたあと小倉への投下をやめ、第2目標の長崎に投下したのです。
その結果、帰還予定のテニアンまでの燃料がなくなり、沖縄の読谷飛行場に緊急着陸することを決定。燃料は沖縄まで持つかもわからない状況でした。地上との無線もつながらないまま、すでに読谷飛行場が目の前に。
ボックスカーの副操縦士、オリビーは彼の手記にこう記しています。
「突然、指揮官のスウィーニーが叫んだ。『オリビー、火炎信号を発射しろ!降りるぞ!』」
オリビーは何発も火炎信号を発射し、緊急事態を地上に報せました。そして午後1時半、着陸。
「滑走路は3分の1くらい過ぎていた。機体は左に傾いていた。スウィーニーがブレーキをかけると同時にプロペラを逆回転させた。」
機体は滑走路を外れて誘導路でようやく停止。
「機体を離れる直前、スウィーニーが言った。『我々がどこから来たか、何をしてきたか、一切話すな。ここの者は何も知るべきではない』と」
アメリカ軍の最悪の任務の最後に沖縄の地は使われたのです。その後、燃料を補給した機体は午後5時半すぎ、テニアンに向けて離陸しました。