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65年前のきょう、戦後初の新聞が復活。収容所で新聞を待ちわびる人々に新しい新聞は何を伝えたのでしょうか。
岡田輝夫さん「米軍のほうからの要請があって収容所内での新聞が作られると」
琉球新報社にある「新聞博物館」この中に戦後初の県内の新聞『ウルマ新報』が残されています。8月15日の終戦の前の月の、きょう創刊されました。
新聞は、沖縄戦を前に、首里の司令部壕内で発行され続けます。敗色濃厚だったにも関わらず、戦いを鼓舞する見出し。しかし、この新聞も5月25日、首里撤退を期に発行停止となります。
それから約2ヵ月後、石川の捕虜収容所内で発行されたウルマ新報は、ガリ版刷りのB4サイズ。裏表に印刷された一枚だけの新聞は、週に1回発行されました。
津波清助さん「新聞〜って持っていったら、(各地の収容所などでは)お〜って出てきましたね。待っていたよ〜っていうような感じで」
当時印刷に携わった津波清助さん。
第1号には、アメリカ軍による日本本土への攻撃と、それに抵抗しえない日本軍の様子に加え、同盟国だったイタリアなどが日本に宣戦布告したことを伝えるなど戦後初の沖縄の新聞は、アメリカ軍の機関紙としてスタートします。
うるま新報は、2代目の社長に瀬長亀次郎氏がつくなど、新聞社には、新しい時代の息吹もあったと言います。
津波清助さん「(当時の新聞社の様子は)すべてのものが無くなってますからね、新聞、文字がまったくないもんだから、やはりやる気がありましたね」