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約3000人の若い命が散った特攻機による体当たり「菊水作戦」。その作戦を支えていたのは沖縄地方気象台の職員でした。そして彼らもまた、その戦場の中で命を奪われたのです。

糸満市伊原、ひめゆりの塔の近くにひっそりとたたずむ「琉風の碑」。沖縄戦で亡くなった沖縄地方気象台職員の慰霊碑です。

当時、気象情報は航空作戦の成否に関わる重要な情報として軍の機密事項に指定され、沖縄戦の始まる約4年前(1941年12月から)ラジオや新聞から天気予報が消えていました。

国吉昇さん「気象情報を毎時間測定して、それを特攻隊が飛べるように大本営に送付するというのが情報でした」

1945年2月、沖縄地方気象台に17歳で入った国吉昇さんは最後まで生き残った職員4人のうちの1人です。

気象台の仕事は、鹿児島や台湾から沖縄に飛び立つ特攻機の重要な参考となる沖縄地方の気象情報を提供するというもの。戦況が悪化する中、気象台の職員は壕内で気圧を測定し、気温と湿度は壕の入り口で風向きや雲の状況、そして風速は目視で観測しました。

最後の気象情報が送られたのは6月20日「東北東の風。風速6メートル。高曇り。気温21度」。その2日後、3067人が戦死した菊水作戦が終了します。

生き残った12人の気象台職員は6月22日に糸満市伊原で解散。この時、負傷したために別行動をとっていた国吉さんも合流します。

国吉昇さん「何とか私もね皆さんと一緒に最後の切り込みに一緒に出ますから、是非私も一緒に入れてくれと言って嘆願したんです」

最後の切り込みに参加したいと願った国吉さんでしたが、当時の田中台長代理は、若い国吉さんを道連れにしませんでした。

国吉昇さん「戦争を体験して生き延びたというのが私の戦後の原点になっているんです」

天気予報が再開されたのは、解散からちょうど2ヶ月後の8月22日。実に3年8ヶ月ぶりの再開でした・・・。