今月、こちらの本が出版されました。「沖縄陸軍病院南風原壕」。沖縄戦当時、日本軍が病院として使っていた防空壕を文化財として保存し、一般公開するまでの道のりがまとめられています。県内には戦争の痕跡を残す防空壕などが各地にありますが、今それらが、破壊の危機にさらされています。
おととい、県内で12年ぶりに開かれた『戦争遺跡保存全国シンポジウム』。戦争中に人々が避難した防空壕やガマ、日本軍の陣地などを保存し、これからの平和学習に役立てようというのがテーマです。今年で戦後65年—。この取り組みが始まったのには、こんな背景がありました。
戦争遺跡保存全国ネットワーク 村上有慶代表「体験者がどんどんどんどん亡くなっていく。「あの人の証言とれなかった」っていう残念な思いを何度もしてきましたので。人はそう長くはないぞと。現場を残して、そこで何があったのか証言をとっていかないと、伝えることができなくなると。」
活動の象徴的な存在になっているのが「沖縄陸軍病院南風原壕群」。 沖縄戦当時、多くの負傷兵が収容され、ひめゆり学徒隊が看護補助要員として動員されていたことでも知られています。1990年、南風原町はこの壕を全国で初めて文化財として指定しました。
南風原平和ガイドの会 知念栄さん「この辺なんか、特に色黒いんですけど、たくさん燃えたんだと思います。 手術は先ほどの十字路、壕の中で一番広いのがここなんですよ。ここで一日に7,8人の手術が行われたと言われています。ひめゆりの人たちの仮眠をとる場所がここ。横になるスペースがなくて、座ったままで、仮眠をとったと言われています。」
中でも20号壕は、歴史や考古学、地質学の専門家によって、発掘調査や整備工事が行われ、3年前から一般公開されています。保存活動の中心メンバーだった沖縄国際大学の吉浜忍教授はこれらの戦争遺跡を、ただ保存するだけでなく、科学的に調べ、証言を集めていくことが大切だと話します。
沖縄国際大学 吉浜忍教授「戦争遺跡の場所に行ってみたら、沖縄戦の傷跡、壕でしたら、避難した人たち、場合によっては亡くなった人の骨がある。使った道具が落ちている。残すのが目的ではない、次の世代にどう伝えるかが目的なんです。戦争遺跡そのものは何も語ってくれないわけ。それを語らせるためにはどうするかというのが大事なんです。」
20号壕から発掘された薬や医療器具。また、天井から見つかった朝鮮半島出身者が書いたとみられる「姜」という文字。壕の狭く、暗い雰囲気とともに、中から見つかった痕跡の一つ一つがリアルに、戦争の恐怖や悲惨さを伝えるのです。
南風原平和ガイドの会 知念栄さん「黄金森一体で、30いくつか壕がありますけれども、こんな風にお見せできるのは、ここだけなんですよ。あとは、年月とともに朽ち果てて、出口も、入口もふさがっていて、わからないんですよ。唯一ここだけしかないので、ここが生きた資料だと思います。」
県内には1000か所以上の戦争遺跡があると言われていますが、このうち文化財として指定されているのは8つの市町村の13件だけ。国や県から指定を受けたものは県内には一つもありません。
戦争体験者が県民の2割を切る中、「戦争の生き証人」と位置づけられ、体験者に代わる「語り部」として注目される戦争遺跡。しかしその多くは、その存在価値を見出されぬまま、開発のため、破壊されているのです。
戦争遺跡保存全国ネットワーク 十菱駿武代表「戦跡が身近にあるということ、それを通じて、何を学びとるかということを、ぜひ学んでいただければありがたいと思います。」
沖縄国際大学 吉浜忍教授「人から物へといいうテーマがありますけれども、この65年がターニングポイントだと思っています。今を大事にしないと、あと10年後に保存しようと思っても、破壊されていたら意味がないんですね。お願いしたいのは、後がないんですね、名実ともに、その数で沖縄から平和が発信されるように」
南風原壕に関しては、その保存活動を進める中で、戦況が厳しくなった際、壕の中で、患者に青酸カリが配られ、死ぬように促されていたこともわかっています。実はいま、多くの修学旅行生などが訪れる豊見城市の海軍壕や南城市の糸数アブチラガマなども文化財として指定されていません。
戦争遺跡の文化財指定がなかなか進まない背景にはこれらが「負の遺産」ということで否定的な見方が強かったこと また、国の文化財指定の考え方に、100年以上経過しないと価値が認められないという傾向があったためです。
県は戦争遺跡の保存と活用を目指して、8月にも検討委員会を立ち上げ基準作りを始める予定ですが戦争体験者が少なくなる中、もう一つの証言者である戦跡の保存が急がれます。