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65年前の今日、今の読谷飛行場と嘉手納飛行場のアメリカ軍機を目指して「義烈空挺隊」130人が突っ込んできました。

現在、読谷村役場がある場所はかつての「北飛行場」、日本軍が県民を動員して建設したものですが、上陸後すぐにアメリカに占領され、すでに150機の米軍機が配備されていました。

これを壊滅するために突入したのが「義烈空挺隊」。爆撃機を伴う集団特攻部隊です。

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65年前の今日 夕方。奥山大尉以下136人は、熊本の健軍飛行場で最後の別れをします。長距離飛行が可能なこの精鋭部隊には、着陸後、ゲリラ戦に突入するための訓練を受けた陸軍中野学校生10人も含まれていました。

日暮れ時の6時に出撃した12機。夜10時11分、「只今突入」の無線が最後でした。

これは翌日の北飛行場の様子です。結局出撃した12機のうち、予定通り滑走路に胴体着陸できたのは1機だけ。

その1機から躍りだした 完全武装の隊員およそ10人がアメリカ軍機7機を爆発させ 26機に損害を与え、7万ガロンのガソリンを炎上させるなど後方撹乱の目的を遂行。しかし、のちに司令部まで到達した1人を除き、全員射殺されました。

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その炎は首里の司令部をはじめ、劣勢にある兵士や住民を勇気づけたと云いますが、八原高級参謀は「義烈空挺隊は、むしろ おろく飛行場に降下して軍の戦闘に 参加してもらったほうが数倍うれしかった」と記述しています。