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1938年に開園し、国が隔離政策でハンセン病患者を収容した沖縄愛楽園には、1944年の日本軍の一斉収容で沖縄全域から900人あまりの患者が集められました。
そして、当時の早田園長の指揮のもと、体の不自由な人も含め、入所者たちが昼夜を問わず壕堀り作業を続けました。
壕がほぼ完成した10月10日、大空襲が園を襲い、その後もアメリカ軍は断続的に爆撃。3月には再び大規模な空襲を浴びせます。
そして4月下旬、アメリカ軍は愛楽園のある屋我地島に上陸。軍はそのとき初めてこの場所が療養所だと知り、爆撃をやめさせ、誤爆を謝ったということです。
アメリカ軍が執拗に愛楽園を襲ったのは、対岸の運天港に日本軍の魚雷艇の秘密基地があり、愛楽園がその兵舎と思われたためと言われています。
爆撃による犠牲者はでませんでしたが、マラリアや栄養失調で毎日のように入所者たちが死亡し、1年間で289人が亡くなりました。