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ここに1冊の記念誌があります。1945年に喜如嘉国民学校を卒業した生徒たちが発刊したものです。「20会」という名前は沖縄戦の年、昭和20年に卒業したことから名付けられました。記念誌に盛り込まれた年表からは戦争の色が濃厚になっていく様子、そして学校が次第に戦争に巻き込まれて行った様子が記されています。

平良俊政さん「小学校20年卒業の卒業生だから卒業式やってないんです、我々は」

1945年。卒業式が行われるはずだったその日、大宜味村は大空襲だったのです。卒業式ができなかった20会の同期生たちは1967年に20年遅れの卒業式を行いました。これが当時の写真です。恩師も参加する盛大なものでした。

あれから43年。ほとんどの方が80歳を迎え、体力面の問題などの理由から20会はことしで解散ということになりました。同期生が生まれ育った喜如嘉の村と最後の同窓会の様子をお伝えします。

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20会の同期生たちの育った大宜味村喜如嘉。ここが校舎のあった場所です。今は、緑豊かで静かな集落。ここに戦はなかったかのようですが、当時、喜如嘉では避難民を含めて269人の非戦闘員が命を落としています。65年前の4月の今頃、アメリカ軍が喜如嘉へ侵略したのです。

平良真平さん「たとえば校舎も」「偽装してあったな、ススキなんかでね」

喜如嘉を案内してくれたのは20会の世話役を務める平良真平さん。1945年の喜如嘉国民学校はアメリカ軍からの攻撃を避けるため校舎をススキや枯れ木で覆い、偽装工作をしたものの爆撃を受けました。

平良真平さん「ここらへんまだ入ったことないんですよ戦後ね、ここ階段段差あるでしょ、みかん畑だった」

平良さんは身重の母と小さな兄弟を気遣いながら防空壕を掘りました。

平良真平さん「中で貫通してね、1、2、3、4つくらい入り口作ってあったんですよ」

その後、平良さん家族は山奥に避難をしました。ついにアメリカ兵が集落に姿を表したのは4月の始めのことです。

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平良真平さん「最初来た時はね、スッと入ってくるんだ米軍は。日本兵はパカパカ靴音が鳴るけど靴音もなく(米軍は)ラバーでしょ。監視立てるけど夜は働くけど昼は寝るわけ。入ってくるの気がつかない。そのまま引っ張られて別れた、家族と」

村人たちが務める監視人が寝ている間に平良さんの家族は捕虜として連れて行かれました。残されたのはほんの少し離れたところにいた平良さんだけだったのです。

平良真平さん「あのね離れ離れですけど昼間ずっとこうやって(小さくなっていた)雨降る時期でしょ。平気で草むらの中に(隠れていた)ムンムンするでしょ、これが日常の生活だった。」

数十日後、収容所で家族と再会できた平良さんが山で見たもの。それは弾を受け倒れ、栄養失調やマラリアで命を落とす人、敗残兵による食料の強奪、避難民同士の食べ物の奪いあい。それは想像を絶するものでした。

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平良真平さん「人間が人間でなくなるってことじゃない、戦争はね。当たり前に今まで受けた人間の道徳というのがないんですね」

ふるさとで過酷な体験をした平良さんも、喜如嘉国民学校の同期生、最後の同窓会に参加します。那覇市に集まってきた20会のみなさんです。久しぶりの再開に笑顔がこぼれます。バスは大宜味村に住んでいる仲間たちを運んでやってきました。

前田一徳さん「おはようございます、ヤンバルからん、中部からん、また那覇んからん、みんな最後の遠足、同級生の遠足と言うことで集めまして」「お菓子たくさんもらってきます、みなさん十分お菓子を食べながら旅行を楽しんでください、どうもよろしくお願いします」みなさん「はいありがとー」

20会はことしで59年目。肉親の死、食糧難、勉強をする場を取り上げられた悲しみ、そして二度と同じ過ちを犯してはならないという思い。最後の同窓会の行程に平和祈念公園が盛り込まれたことがその気持ちの強い現れでした。

「はい、おじさんはい(泡盛かける)」礎にかけられるのは、ふるさと山原から運ばれてきた島酒。愛おしい名前に当時の思い出がよみがえります。

前田一徳さん「ああこれこれこれ、哲夫、ああ、あるなあ→名前をなでる」「これは曠昭の兄さんだな」「福地曠昭さん曠昭だが、長男、次男。」「福地曠昭さんひろしげは僕のすぐ上、わかるよおとなしい方だった2つ上だから。」「福地曠昭さんと友人ひろまささんはわんと似てるってよく言われていた、大阪行ったってあの大きかったさ、ひろまさや。」

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前田一徳さん「この人たちが生きてさえおれば色んなこと変わっただろうなと思いがあるね」「子供たちにしっかりとやはり沖縄戦についてはですね絶対に忘れないような、(そういう)力がまだまだ我々同期生には残っていますので、きょうはおそらく最後の同期生会にはなりますけれどね思いを新たにいたします。」

記念撮影「はいチーズ。押すけどね音がしないんです、わははは。」「さびしいね、もう終わりだからね」「ちょっと寂しいですねもう40何年なってますかな、やっぱり寂しい名前がなくなるってことはね。」

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北部の小さな学校で机を並べた仲間たち。当初いた85人のメンバーのうち参加できたのは25人。共に戦世を語り合う機会は少なくなりますが、激戦地の摩文仁で同窓会を閉じた20会の平和の思いは消えることはありません。