1974年3月。終戦を知らずに29年間闘い続けた兵士がフィリピンで発見されました。日本の敗戦を信じなかった小野田少尉は「陸軍中野学校」の出身。「陸軍中野学校」とは、エリート青年にスパイやゲリラ戦を教えこむ秘密の特殊教育機関でした。 その教えを守り、小野田さんは、正規軍が負けても山に潜伏していたのです。
小野田さんがいたのはフィリピンの遊撃隊。中野学校はニューギニアにも遊撃隊を作り安い戦力でである原住民を部下にゲリラ戦を戦ったのです。沖縄戦でもそれが実行され「護郷隊」と呼ばれました。(総勢800人死者91人)武器も食糧もないまま、ふるさとの山河を守れとゲリラ戦をさせられたのは、年のころは高校球児たちと同じ14歳から19歳の北部の少年達だったのです。
スパイやゲリラ戦のプロ、陸軍中野学校出身者は、沖縄戦に42人も投入されていたことがわかってきました。中には、偽名を使って学校の先生として潜伏し住民虐殺事件を起こした伊是名のケース、またマラリヤ有病地帯に住民を追いやった波照間のケースなどが知られています。
彼らは「離島残置諜者」と呼ばれますがもう一つの任務「遊撃隊」・ゲリラ隊の編成には14人の中野学校出身者がかかわっています。65年前の今頃、北部の山中で彼らの闘いは始まりました。
1944年9月。那覇空港に長髪の将校がおり立ちました。「護郷隊」の隊長になる村上治夫陸軍中尉。軍人と悟られないよう、長髪・私服が中野学校の鉄則でした。早速、着任報告に来た村上に対して牛島司令官は「どういう任務できたのか?」と尋ねると「敵が上陸し玉砕した場合に、われわれが最後まで敵の後方を撹乱し、大本営に情報提供します」と答え、長参謀は笑いながら「我々の骨を拾いに来たのか」と冷やかした。
米軍の上陸から玉砕、本土決戦という流れの中で、大本営は玉砕しても時間を稼ぐために「護郷隊」の編成を村上に任せたのです。川満さん「最初からゲリラ戦をやるということで、大本営の勅命を受けてるんです。」名護市教育委員会の川満さんは、北部の少年兵の実態を、中野学校との関連の中で調べています。
川満さん「3年分の食糧を持っていった。すごいですね。3年間山を降りようと思わなかった。降りたらだめだったんですって」会場には、元護郷隊員の姿もありました。当時19歳で村上隊長の馬番をした我如古喜将さんです。
我如古さん「村上隊長は、あんた生き神様だよ。当時。何でも命令は、はい、これ以外にない」「軍人っていうのわからんから。はっは。喜んでみんな召集に行ってますよ」
10月23日。我如古さんら童顔の少年たちが名護国民学校に集められました。大宜味村から歩いてきた宮城さんもその一人です。
宮城さん「名護小学校で1ヶ月間訓練受けて、終えてから牛島閣下の検閲受けて。」「最初小学校にきた場合は、消灯ラッパが鳴ると、すぐ「くすん。くすん」泣くでしょう。この40名あまりの部屋、もう全部泣いてね。幹部連中がそばで寝ているから。電気つけて「誰か!」というとすぐまた止まって。2,3日は泣きよったね。晩に。」
宮城さんは、捕虜のフリをして金武の収容所に潜り込みアメリカ軍のガソリンの入ったドラム缶を一か所に集めて上官に伝え、斬り込隊が爆発させ、大損害を与えました。
宮城さん「上からの命令で、捕虜にされてから行きなさいって」Q護郷隊だってわかったらアメリカ軍に殺されたかもしれないんですよね?「誰もばれない、僕は全然ばれなかった。小さいでしょう。赤いふんどしして」やがてアメリカ軍は、子供のフリをしたスパイがいることに気づき、躍起になって「護郷隊」のアジトを探します。瀬良垣さんの父親は、息子が護郷隊員であることがばれてアメリカ兵に射殺されました。
瀬良垣さん「息子はどこにいるかって」「言わなかったわけですよね。場所はわかっても」「で、歩けっていって後ろからやったんですよね。その時について行ったのが一番下の弟「母からまた伝言で。、お父さんやられたけどね、来るなと。お父さんのことで来やしないかと心配になったんでしょうね母も。来るなと言われてずっと行かなかったんですよね。終戦まで」「地元でやるということはものすごいつらいですね」
後ろの山には家族が隠れている。それを守ろうと歯を食いしばって闘う一方で、アメリカに使われないよう、自分の学校や家を燃やす任務もありました。
川満さん「稲嶺国民学校は、護郷隊が焼いたんです。稲嶺出身の護郷隊の人たちも一緒なんです。ご本人もつらかったと言っています。逆に稲嶺の人たちも、誰が焼いたんですかと聞くと日本軍がやりましたという。護郷隊というのは言いにくいかもしれない」
「故郷を守りたい」という少年たちの悲願を利用した護郷隊。しかし、中野学校の指導者らは、決して沖縄の山河を守るために沖縄に来たのではなかったと川満さんは指摘します。今も元隊員たちが、良く歌う歌があります。「護郷隊の歌」この「護郷隊の歌」は、3番の歌詞がなんと陸軍中野学校の歌の1番と同じ。メロディーも同一であったことがわかりました。
「あかきこころで断じてなせば骨も砕けよ肉また散れよ君に捧げてほほ笑む男児」
我如古さん「顧みるとよ、こんなに人不足、軍人不足で私たちまで使われたんだなあ。だまされて遊撃の教育されたなあ。悔しい。今自分で考えて」
我如古さんは9月末に山を降りますが、村山隊長は翌年まで、北部の山に潜伏していました。村上隊長は戦後、犠牲者の 家をすべて回るという、非常に情のある方で、部下にはいつも「死ぬな」といったそうです。
しかし、死ぬなというのはずっとゲリラ戦をやれという中野学校の精神そのもになんですよね?このように給料も武器も食糧もない、終わらない戦いを子供にさせた日本の戦争の在りかた、その罪が厳重に問われるべきではないでしょうか。