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国は戦争一色となり、生徒の戦場動員は当然という雰囲気に包まれていました。
宮城喜久子さん「父は教師をしていて、いつも子どもたちに教育しているのは“戦場に行け”ということですよね、そのときの教師は。それが、私が“戦場動員があります、許可して下さい”と言ったら突然怒り出したんです。“お前を16歳まで育てたのは死なせるためじゃない、行くな”と言ったんです」
当時、第一高等女学校に通っていた宮城さんは父の言葉に反発し、学校に戻りました。その数カ月後の3月23日、一高女と女子師範学校に動員命令が下ります。夜道をいく生徒たちはむしろ溌溂とさえしていました。
宮城さん「お互いに“兵隊さん頑張ってください”とか、向こうも“学生さんがんばろうね”とか、そう声を掛け合いながら南風原に行ったんです。途中『従軍看護婦の歌』とかを歌いながら歩きました」
宮城さん「戦争というものがどんなに恐ろしいものか、戦場がどんなに厳しいものなのか、全く知らないんです。生徒も教師も」
向かった行先は、南風原にあった沖縄陸軍病院。暗い壕に次々と運び込まれる重症患者たちの世話や手術の手伝い、死体の埋葬にいたる過酷な日々を、そして何よりも、死と隣り合わせという想像を絶する戦場に放り出されることを動員のその日、誰も知りませんでした。