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住民、学徒総出で決戦の日に備えていた沖縄。しかし、日本軍の戦況は悪くなるばかりで、沖縄守備隊も部隊配属の変更など、戦いの前から苦しい状況となります。

ごつごつとした石灰岩の岸壁。そこには自然に出来た窪みや空洞が至る所にあります。

日本軍はその地形の特徴を活かし、海岸線にトーチカを造りました。読谷村都屋漁港内にある「アブトゥガマのトーチカ」もそのひとつ。海から攻めてくる敵を水際で迎え撃つ作戦です。

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しかし1944年7月のサイパン、そしてテニアン、グアムが次々と玉砕。さらに、フィリピンのレイテ沖で苦戦が続き、大本営はその年の12月、沖縄守備隊の主力だった第9師団を台湾へ移動させます。

年が明けて、兵力の穴埋めもないまま大本営が「本土防衛作戦」を決定。つまり「沖縄の32軍は日本本土を守るための“捨て石”となって戦え」という命令でした。

戦力が大幅に低下した32軍は、部隊配属を変更。

1945年2月には北と中飛行場の防御を放棄します。さらに、敵に使用されるのを避けるため、3月10日に32軍司令部は伊江島飛行場の破壊を命じました。一般住民、学徒と総動員で造った飛行場。

そしてこの「アブトゥガマのトーチカ」も結局は使われることなく、アメリカ軍上陸の日を迎えます。