きょうの特集は、毎日エンディングでお伝えしている「オキナワ1945」の拡大版をお送りします。与那国出身の軍人、大舛松市(おおます まついち)大尉は1943年1月、ガダルカナル島で戦死。その年の10月に県人として初めて個人感状と天皇に戦地での功績が伝えられとして、後に軍神として祀られます。
当時の中学2年だった大舛大尉の弟の体験談や地元与那国島にはどのように伝わっていたか取材しました。
西の国境にある与那国島。ここに一際目を引く墓があります。太平洋戦争末期の2年間、全国から軍神として注目された大舛大尉が眠っています。大舛松市さんは1917年8月6日、与那国島の祖納で生まれました。幼少の頃は比較的おとなしい子でしたが、小学生のときから軍人にあこがれ、旧制の県立一中を卒業後、陸軍士官学校に進みます。
そして太平洋戦争開戦前の1940年から香港やインドネシアのアンボン島などの戦地を経て、1942年、ソロモン諸島・ガダルカナル島の作戦に参加。1943年1月13日、部下14人とともに敵陣に突入し、戦死しました。
大舛大尉の伝記には、「敵の攻撃で腕や足などを負傷しながら部下の兵士に肩を借り敵陣まで向かい真っ向から切り込み叩き切るなどして武器などを奪った」とあります。
そして彼の最後の姿は、「ぼろぼろの軍服、破れた地下足袋、左手を首に吊るし、片脚に深い傷を引きずり、顔一杯の包帯」だったと記されています。一人の軍人が国民の知るところになったのはその年の秋。全国紙の一面で勇敢な戦いぶりが陸軍から表彰され、天皇にまで伝えられたということです。
当時県立一中の2年生だった大舛大尉の弟、重盛(じゅうせい)さんは、1943年10月7日校長室に呼ばれます。
大舛重盛さん「校長室に呼ばれまして、実は「こうこうこうだ」という話しがありまして私まだ小さかったからあんまりよく分からなかったですよね。」この日から沖縄が生んだ英雄の家族ということで大舛家の運命は変わりました。
大舛重盛さん「当時は名札をつけましたねぇ。すれ違って名札が見えるわけですと。そうしたら名札をみてね、「おお、大舛、大舛」ってみんなが、「大舛中隊長の弟が、この人だよ」と、幼いからね、非常に恥ずかしいくてねぇ赤じらーになりましたよ。」
そして県内各地で、大尉にまつわる催しなどが開かれ、彼は軍神として県民の人気者になります。
大舛重盛さん「いろんな団体が「大舛中隊長をしのぶ会」とかいうって、みな、方々でやっていましたよ。校門から降りていったらそこにじっとバスがねぇ、満員のバスが待っているんですよ。案内する人がバスを待たしてどうしても私をねぇ一緒に集会場ですか、そこに連れて行きたいということで」
本島や宮古、石垣では県や小中学校が主催して、1944年と45年の命日に大々的に祝っていました。一方、その頃大舛大尉の出身地の与那国島では、大きな催しはあまりなかったようです。
請舛敏子さん「(大舛大尉が)いつ亡くなった分からない、これも分からないし (大舛大尉に)また会ったこともないしぜんぜん分からないですよ。」
当時の島のことをよく知る請舛敏子さんは、戦争中は家族10人を養うため芋取りや薪拾いなど追われていて、大舛大尉については、よく分からないと話します。
請舛敏子さん「大舛のお父さんお母さんは、きょうは田んぼを植えていらっしゃるんだなぁ、きょうは元気でいらっしゃるんだなぁと覚えているだけ。」
しかし大舛大尉のお墓が島に立てられたころから、ある歌が広まっていったといいます。
請舛敏子さん「一番しか覚えていない。決戦続くソロモンの ガダルカナルは堺台ひしめく米鬼斬り伏せて 起てり大舛中隊長 〜ああ大舛中隊長〜 残れる部下は十数名 我に続けと軍刀を阿修羅の如く振りかざし 敢然殺到敵陣へ〜」
「ああ大舛中隊長」は、大舛大尉のガダルカナルでの戦いぶりを歌にしたものです。郷土の誇りとしてこの歌を口ずさんだ沖縄の人々。その後、彼らを待っていたのは凄惨な地上戦でした。終戦後、この歌が歌われることはありませんでした。
大舛重盛さん「沖縄県民の戦意高揚というのは当時のあれじゃなかったかなぁと思いますね。最大限に利用したと思いますよ。そういう面に適した、いい事例だったんじゃないですかね。」
大舛大尉を国民的英雄に押し上げたのは何だったのか。西の果ての島から名をあげた英雄の熱狂は2年で去り、大舛松市さんは島で静かに眠っています。