今年1月から毎日番組の最後にオキナワ1945 島は戦場だったと題して65年まえのその日なにが起きたのかお伝えしていますが、短い時間ではお伝えできないものを特集でお送りします。今回は、65年前の2月6日 久米島沖で沈没した嘉進丸についてです。
こちらの本をご覧ください。「太平洋戦争と久米島」これを書いたのは、教員を退職したあと第二の人生をかけて埋もれていく島の戦争の記憶を掘り起こしている男性です。この方あまりしられていない 嘉進丸の撃沈で肉親二人を失っていました。
タクシーに乗って後ろ向きの上江洲盛元さん「この辺だったかもしらんな〜 港はこの辺」上江洲盛元さん74歳。教員を退職後、久米島に戻り戦争中の出来事を聞き取り調査しています。
港で聞き取りをしている上江洲盛元さん「あんたは、嘉進丸わかる?」男性「うちのおばさんはこれで亡くなった 嘉進丸で」
この日調べていたのは 嘉進丸遭難事件のこと。嘉進丸は、民間の船で島の人たちの大切な交通手段でしたが、軍に徴用軍事物資も運ぶようになりました。そして1945年2月6日。真泊港を出港した直後「スガマー」といわれる場所でアメリカのB24によって撃沈され、学生や住民およそ40人が帰らぬ人となりました。
嘉進丸には、第二高女の卒業証書を取りにいくためた盛元さんの姉と兄ものっていました。
上江洲盛元さん「卒業証書を取りにいくから弟もじゃぁ僕もついていくといってしまったことがこういう結果になったんだよ。」「これに乗っている人たちを調べてみたのよ。スガマー(事件の被害者)のことは、一人ものっていない。」
上江洲盛元さん「上江洲盛文、僕の兄だよ、(亡くなった場所は)山田橋。 上江洲須美、(亡くなった場所は)通りばる非難壕。どうしてこう書いたのか良く分からない。」
盛元さんが集めた資料によると、姉と兄が亡くなった場所は、陸上と記されています。その謎を解くため真泊港に近いお年寄りの家を一軒一軒たずね歩きます。
上江洲盛元さん「飛行機は、なんだったか分からない?僕らは、グラマンって聞いたけど。」お年寄り「グラマンじゃないB24ね。」次に向かったのは、お姉さんを嘉進丸で亡くした糸数さんの家です。
上江洲盛元さん「嘉進丸でしょ?あのねー、この名簿、嘉進丸は一つも書かれていない。スガマーのことは、何も書かれていない、だから秘密にされていたのかな? (亡くなった場所は)スラミヤマって書かれている。」「わったー姉も兄も嘉進丸。別のところかかれている」糸数トミさん「むる嘉進丸やる。」
姉の宮城八重さんは、軍に使える看護師として乗船していました。その姉は、死を覚悟して親を悲しませまいと船に乗る前の晩 自分の写真をすべて破り捨てました。
糸数トミさん「思い出すからお母さんやお父さんに見せたくないといって、夜中ちぎって、朝の9時の便で(出港しました。)ほんともうやだ」
撃沈されたという知らせを聞いた住民たちは、3日間嘉進丸の捜索にあたりましたが、見つかったのは、船の残骸だけで遭難した人たちの遺体は、誰一人見つかりませんでした。
糸数トミさん「「港からひろったサンゴのかけらを白い布に49個いれて墓に埋葬しました。」
しかし、嘉進丸については、あまり語られることはありませんでした。戦争中の遭難船舶については軍が機密扱いにしていたのです。盛元さんの妻和江さんは、九州へ向かう疎開船に乗船。航行中に日本軍の護衛船2隻が撃沈されるのを目撃しました。
上江洲和江さん「やられたことを口外しちゃいけないって口止めされてね。憲兵がのっているのよ疎開船にも軍のほうはね、そういうことは絶対に服従ねあの当時は。」上江洲盛元さん「だからこれも秘密にされてこうなってきたのか?というかんぐりが出来るわけ」
この頃、久米島周辺では、(1月22日兼城漁港)軍船8隻が撃沈されていますが、 軍に徴用された船とはいえ、島人の足がわりだった民間の船が狙われたことは、住民に大きなショックを与えました。どの船に軍事物資が乗っているかわからない。船は、すべてターゲットにされたのです。
徴兵船の撃沈を目撃した人は「南方にいろいろなものを運ぶ船団だから軍の協力だからということで日本人は、日本軍であるとみていたんじゃない」
「過去に目を閉ざすものは、現在も見えなくなる」盛元さんは、同じ過ちを二度と繰り返さないために過去の事実を追い続けます。
上江洲盛元さん「軍人それから民間人、全部区別なしにやられるというのが戦争でしょうね。」
民間人を攻撃対象してはならないと定めた国際法の「ハーグ陸戦条約がありますから民間の船と日本軍の船をはっきり分けていたらこんな悲劇もなかったのかと思いますが、見た目は民間の船、しかし軍の物資も乗せていたんですよね。軍隊と離れていれば民間人は攻撃されないという意識はなく、逆に軍と一緒なら安心とか、軍も民も一体という当時の常識が民間の被害を拡大したことがわかります。65年経って今なお学び残したものがたくさんあるようです。