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65年前の今日、そしてこの時期は、新聞に2日と空けずに食糧確保を呼び掛ける記事が載せられます。

1945年2月5日の沖縄新報は「勝敗のカギは増産」「イモ類を大増産」の見出しで食糧生産を呼び掛けています。さらに学童を動員して野草集めという記事では、ソテツの実、ツワブキ、ツルムラサキにスヌイといった海草まで残らず採って乾燥し、県民の「決戦非常食」にしようとあります。

「楽観許さぬ食糧」「作らぬと食えぬぞ」「官民一体となって籠城に備えよ」食糧増産運動は学校や職場にも広がりました。

1945年初頭の沖縄の推定人口はおよそ50万人。そこに10万人の軍隊が入れば食糧不足は明らか。しかも働き手の男性は軍に取られ、食糧生産能力は日に日に下がっていました。

2年前のガタルカナル島に始まって補給路が絶たれた島嶼部の戦闘では、すでにおびただしい数の餓死者が出ていました。この時点で大本営は県民が餓死する事態を予測できたはずですが、台湾からの補給船も3月になると途絶え、沖縄は数万人の餓死者を出す「飢餓地獄」になっていくのです。