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2010年が明け、戦後65年の年を迎えました。沖縄戦は1945年3月26日、アメリカ軍の慶良間諸島上陸から6月23日の組織的戦いの終結までが多く語り継がれていますが、戦争は突然起きたわけではありません。正月から年末まで、その日に何があったのか。ステーションQではことし1年、65年前のその日に起きたできごとを中心に毎日、番組のエンディングでお伝えします。1回目のきょうは拡大版リポート、名護市にある国立療養所、沖縄愛楽園の65年前を取材しました。

女性「いいそーぐゎちでーびる」2010年元日。沖縄愛楽園の新年会は笑顔であふれていました。女性「面白いですよ、楽しいですよ」男性「楽しい、みんな集まって楽しい」1944年、10月10日、10・10空襲が愛楽園を襲いました。

記者「あの水タンクについているたくさんの穴、銃弾のあとなんですね」

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おびただしい数の弾痕を残す水タンク。園内にはこうした空襲の痕が、生々しく残っています。1938年に開園した愛楽園。国が隔離政策でハンセン病患者を収容してきた園には、1944年、日本軍の一斉収容で、沖縄全域から900人余りの患者が集められていました。そして7月、当時の早田園長の指示で、壕堀り作業が始まります。

知花重雄さん「アリ、こうしてアリ、だいぶ深いよアリ、」壕を掘るのは入園者たち。知花重雄さんは、「働かざるもの食うべからず」という早田園長の指揮のもと、つるはしを使っての作業を強いられました。

知花さん「そうして指がこう化膿して、熱発して、もうこれは熱発といってマラリアと… きついよ、頭は痛いし熱は40度以上出るし、もうそうするよりは、この指を切って落とせばすぐ治るんだよ、この間接はずせば。だから熱にうなされるよりはそれがいいと言って切って。だから僕らもほんとは指、きれいな指だったんだよ。」

そして、「僕は野球選手だったんだよ」と誇らしげに話す知花さん。1941年の夏。写真には、ピッチャーとして愛楽園のチームを引っ張った知花少年のたくましい姿があります。また、糸数宝善さんも毎日壕堀りを強いられた一人。ある日、編隊を組む軍用機が轟音と共に空に現れます。

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糸数宝善さん「飛行機が、このずーっと編隊を組んで南の方へ下がって行くんですよ。私達は丘に上がって遊軍だと思って、万歳を叫びながらそれを送ったんです。それが10・10空襲で那覇を破壊して、そしてその戻る飛行機がこちらをやったんですよ」

その後も愛楽園は断続的に空襲を受けます。年の暮れから1945年の正月にかけても、アメリカ軍機の襲来の度に壕に逃げ込む生活が続きます。アメリカ軍が執拗にここを襲ったのは、対岸の運天港に日本軍の魚雷艇の秘密基地があり、愛楽園がその兵舎と思われためと言われています。

糸数さん「特殊潜航艇のね、基地があって、」「(愛楽園を)兵舎だと思ったんじゃないかなと、その真意は分からないけどもね」真意は分からない。知花さんは、疑念を抱いています。

知花さん「アメリカがそんな諜報機関が精密な、沖縄の農道まで調べ上げてるのにこっちに療養所があるということを知らないわけはどうかなーという」壕を掘る作業は過酷で残酷だったと話す糸数さん。しかし、戦争を生き延び、差別と偏見を乗り越えてきたという今、生きていて良かったと語ります。

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糸数さん「いまを見るときにね、やっぱりこの壕によって今があるということをね、あるということを、いま、私達は人間としてね、こう、認められて、こうしてね、楽しく人生を送っていけるという思いがあるわけですから、はい。」

65年後の新年会。戦争、そしてもうひとつの戦いを乗り越えてきた笑顔が、そこにあります。

女性「(Q.65年前のことを思い出すとどうですか)ああもう、思い出したくないよ。あの時代のことは。もう苦しみだけでしょ」「毎日もう、飛行機に追われて、大変だったからね」男性「あんなことはもう絶対にやってはいかん。あの基地も早く追っ払って。あんたなんか若いから、何かで追っ払って」

空襲で壊滅的になった愛楽園ですが、この壕のおかげで空襲で亡くなった人はいなかったそうです。しかしマラリアや栄養失調などで、1年で289人が犠牲になっています。いかに劣悪な環境に置かれ続けたかということが分かります。それだけに、ごく普通にお正月を迎えるありがたさをあらためて思います。「オキナワ1945島は戦場だった」はあすからも毎日、ステーションQのエンディングでお伝えします。