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宮古島市の市街地に位置する宮古神社。現在の社殿は1980年に再建されたもので、かつては近くの小高い丘にありました。1954年に撮影された写真です。よく見ると屋根に十字架が立っています。何とも不思議な光景です。

宮古神社・奥間寛次さん「(Q:何故十字架が?)私では解らない部分があります。記録は見あたらない」

この謎を知る人がいました。伊志嶺牧師は十字架が建てられた背景として、ある人物の名前をあげました。クリスチャンで、終戦まで東京で小学校の教師をしていた国仲寛一牧師です。

伊志嶺牧師「宮古人であるということから、馬橋のファーム女子宣教師が、宮古の伝道の為に派遣された」

終戦直後、宮古に渡った国仲牧師は、宮古女子高校の校長として教鞭をとる傍ら、キリスト教の伝道に努めました。当時、主のいなかった宮古神社を集会所に選んで修復し、廃材を使って十字架を作りました。その一方で、国仲牧師が心を砕いたことがもう一つありました。

伊志嶺牧師「まず第一に行かれたのが宮古南静園です」

元ハンセン病患者の暮らす宮古南静園。入所者らは砲弾の下を逃げまどったうえ、終戦後も多くの人が飢えやマラリアでその命を落としました。そこに救いの手を差し伸べたのが国仲牧師でした。入所者の一人に話を聞くことが出来ました。

小禄富さん「(Q:どんな方でしたか?)優しい人でした。(Q:国仲先生のことは好きでした?)はい、大好きでした」

国仲牧師はアメリカ軍と交渉して入所者の為に物資を手に入れた他、救いの道を説くなど、入所者らに生きる希望を与えました。しかしもともと病弱だったことから、1951年3月6日、わずか41才でこの世を去ります。

小禄さん「悲しかったよ。3月6日、これは忘れられないですね。身体が弱いのに頑張ってくださったんです」

亡骸は、園の納骨堂に納められました。

小禄さん「ここに一緒にいたい、という先生の希望であられたそうです。(Q:よく歌っていた賛美歌は?)”雪よりも白く”をいつでも歌っていらした。雪よりも白く、自分のことを清めてくださいという賛美歌」

命を投げ出してまで、荒れ果てた故郷のために力を尽くした国仲牧師。宮古の戦後史の一ページにその名は刻まれています。