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沖縄県立宮古高等学校。戦前の旧制宮古中学を経て、戦後男子校の宮古高校に改称されました。

宮古女子高校と合併した頃の写真です。この頃はまだ定時制が別れており、校門の左の柱には定時制高校の看板が掲げられています。沖縄本島に住む宮古高校OBらで組織する二水会の皆さんに写真を見てもらいました。

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OBの一人「あの頃は進学熱がすごくて」OBの一人「教師も生徒も理想に燃えていた」

1959年に別のアメリカ兵によって撮影された写真です。写真につけられた説明では、「基地内の英語教室に軍車両で訪れた生徒たち」とあります。

OBの一人「こっちはね、平良さん・・・。亀浜さん・・・」

その後の調べで写真の生徒らは14期生ということがわかりました。14期生の亀浜さん「これは右が保」渡真利さん「二人。間違いない」写真の主は亀浜さん、平良さん、渡真利さんで1年生の時に撮られたものでした。

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亀浜常久さん「当時琉球文化会館で英会話教室があって、航空隊から来た講師と仲良くなって遊びにいったんじゃないかな」 亀浜さんたちが利用していた琉米文化会館は、地域文化の向上を目的にアメリカ民政府が運営していたもので、宮古を始め沖縄本島など各地に設置されました。

宮古高校OBで国際弁護士として活躍する川満さんは3年生の時にアメリカ政府が主催する世界高校弁論に琉球代表として参加しました。代表試験は英語の小論文。琉米文化会館に足繁く通い、英語を徹底して勉強しました。

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川満敏さん「ほとんど毎日のように通っていました。沖縄が復帰したら国連か外務省に入るのが少年の頃の夢でした」

Q琉米文化会館の目的は?川満さん「アメリカを理解させる為の民間情報の機関でした」 Qプロパガンダはありましたか?川満さん「当然あります」

アメリカ軍の心理作戦部隊が編集にあたった政府発行の月刊誌「守礼の光」は、沖縄の住民を取り込むためのプロパガンダ誌として発行され、各地の琉米文化会館におかれていました。

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たとえアメリカのプロパガンダであったにせよ、たくましい宮古高校の生徒たちは、逆にアメリカを利用し自らの人生を築き上げました。

Q後輩へ伝えたいことは? 川満さん「田舎に生まれた子供たちはハンディキャップがあるが、それをバネにして小さい島に生まれても出来る、という信念を持って欲しい」まだ戦後の混乱が残るなか、大きな夢を抱いていたかつての高校生の内、ある人は島の外に出て飛躍し、ある人は島に残って故郷の為に貢献しています。そのたくましさは時代を超えアララガマ精神として後輩たちに引き継がれています。

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