この事故は沖縄に駐留するアメリカ軍が起こした事故としては2番目の規模といわれています。しかし50年が経って、風化しつつあるのも現実です。こうした中、地元では若者たちが劇を通してこの悲劇を語り継ごうと立ち上がりました。彼らの奮闘ぶりを取材しました。
この日、宮森小学校では子どもたちが劇の稽古を行っていました。しかし…
ハーフセンチュリー宮森のメンバー「お客さんは見に来るさあ、あんたたちを見に来るさあ。だのに、覚えてませんでした、緊張してできませんでしたってもう一回、させてくださいってできないよね。」
本番が迫っているのに台詞を覚えず、恥ずかしがって大きな声を出さない子どもたちに、お姉さんたちからは檄が飛ばされます。子どもたちと舞台に立つのはハーフセンチュリー宮森のメンバーたち。うるま市の元教師・宜野座映子さんと教え子たちで結成されています。それはある事故がきっかけでした。
去年10月、名護市真喜屋でアメリカ軍関係者が操縦するセスナ機が燃料切れで墜落した事故。現場は学校からわずか300メートルとまさに宮森の悲劇を思い起こさせる事故でした。
ハーフセンチュリー宮森・宜野座映子さん「全然変わっていないんじゃないか、沖縄の状況ということで。もう2度とこういう惨事があってはならないということで強い思いで動いております。」
台本を作るため、メンバーたちは遺族や体験者の話を聞きました。
新田宗英さん「見た瞬間、爆発音です。僕は戦争かと思いました。」新里律子さん「2年生の教室の前から子どもが火達磨になって出てきた。髪が燃えて、洋服が燃えて…」
凄惨な事故の状況。何より印象的だったのは50年が経っても薄れることのない家族たちの愛情でした。
田原英子さん「1日に1度は出ますよね、顔が。ああだった。こうだった。」
喜納福常さん「あの当時のことはまだまだ目の前に浮かんで絶対に消えることはないわけです。まだ2年生の面影とね、彼の姿が残っているんですよ。」
遺族たちの気持ちに寄り添いつつも、事故の実相をきちんと伝え今の沖縄を見つめ直す舞台にしたい、そんな思いから台本は何度も練り直されました。そして、ようやく演劇公演にこぎつけたのです。舞台では教師やわが子を失った母親の回想を通して、事故の生々しい状況が語られました。とくに母親の悲痛な訴えには会場からすすり泣きの声が漏れていました。
「ずっとそばにいることも許されなくて。あの子が一番不安だったんだろうね。」「生存者、遺族の方から聞いてきた声を届けたいという一心で、思いがこみ上げて」
音楽も劇を盛り上げました。これは亡くなった人たちを思い続ける、切ない気持ちをうたった「キミ、オモウ」。
「亡くなった人も遺族の中で生きてて、今を支え続けているという優しい気持ちを歌にのせたかったので。」「聞き流していませんか、いつものように過ぎ行く音を。」
そして稽古では注意を受けることもあった子どもたちですが、この日は堂々と舞台に立ち、観客から大きな拍手を受けていました。
観客「素直な気持ちを、ただ言っているのではなく、気持ちも入っている感じが伝わってきたから、涙出てきた。」「子どもたちにも沖縄の現実に目を向けてほしいと思いました。」
事故を知らない世代が試行錯誤を繰り返し作り上げた舞台。彼らにも貴重な経験となりました。
祖堅加奈枝さん「50年生きてきた体験者の重み、苦しみを伝えられるように意識してきました。」川満美幸さん「気持ちは100伝えたつもりで、そのうち1でもいいから、見に来てくれた人が興味を持ってくれたらそれでいいです。」
多くの人が忘れようとしても忘れられなかった事故。若者たちからは悲しい過去も目を背けず語り継いでいこう、自分たちの手で未来を築いていこうという熱意が感じられました。
この劇は宮森小学校を含め、3回公演が行われたんですが、大変好評だったということです。ハーフセンチュリー宮森ではこの劇のDVDも制作していて平和教育などに役立ててもらえればと話していました。何年経っても事故の実相を知ることは辛いことですが、語り継ぐことで、同じ過ちを許さないということにもつながるのではないのでしょうか。以上Qリポートでした。