「小さな離島の学校」を代表する大神島の学校が今月で休校になります。
島の分教場ができてから75年間、小さな島は毎年春に新しい先生を迎えましたが、初めて、先生のいない春がやってきます。島に先生のいる、最後の一日を取材しました。
宮古島から船で15分。大神島は人口は30人の小さな島です。島の玄関口にあるひときわ立派な学校は、島の活気の源でもありました。しかし、最後の生徒、根間勇輔くんが転校するので、休校が決っています。
勇輔くんは二つ上の姉と島の祖母の家で育ちました。姉の高校進学に合わせ、平良の父の家に移る予定でしたが、なんとかあと一年でもと望む島の声を聞き入れました。
去年は学校が50周年を迎える大事な年だったのです。分教場の時代から数えれば、実に75年間、島は小さな学校を守ってきました。島の人全員がここの卒業生です。
しかし、教育委員会も今度は勇輔くんの希望を優先させたい考えです。
島袋課長「最後の中学校生活は切磋琢磨できる仲間のいるところに行きたいという本人の強い希望で。朝、先生方が来る前に一人で登校して灌水(水やり)をし、8時過ぎの船を待つ。そして5時になると先生方の船は帰っていく。一人で学校に残る。つらいものもあったのかなと」
1日5便、島尻と往復する定期船。先生の送迎と給食を届けることが主な業務でした。
定期船乗務員・久貝源徳さん「1便は減らすような話はしていた。もう学校の先生もいないし、生徒もいなくなるから。もう、さびしいとしか言えないね」
毎年3月に、島ではささやかな送別会を開きます。かつて先生が島に住んでいた時代もあり、毎回、別れは辛いものでした。でも、4月になれば新しい先生がやってくる。その希望が支えでしたが、今年はさびしい春になりそうです。
英語の先生「勇輔がどんなことを書いているかと、ちょっと英語で読んでみます。Thank you for teaching me English. This was a great year. See you soon!」
島尻彦吉区長「正直言って、学校がなくなって、先生なんかがいなくなって、寂しくなったら、年をとるのが早いかなと思ったりします。赴任される学校に行っても、明るく楽しく頑張ることを願います」
定期船がなかった時代、先生は島に住み、食事も各家庭で取りました。先生はみんなの憧れでした。
久貝ヒデさん「先生がオルガンを弾いたとき、アガイー、自分もあの音楽が弾きたいね、先生になって弾きたいねと思う気持ちがあった。羨ましかった。先生がオルガンを弾いたときは」
島に学校ができる前は、対岸の狩俣の民家に下宿して小学校に通いました。さびしくて、泳いで島に帰ろうという子もいたそうです。
久貝ウメさん「狩俣に一週間ずっと泊まっていたから、泣いていたよ、小学校のときには。初めはみんな泣いて泊まった。1年生だのに」
大浦ヨシ子さん「もう土曜日になったら、ごはんも食べないで遠見台に来てからに、船がいなかったら『神様、船を出してください』とお祈りして」
ヨシ子さんが4年生の時、大神の分教場ができました。
ヨシ子さん「学校作る時はさ、大神のお母さんなんかは、みんな茅を集めた。茅ぶきで作ってあったから。学校も大神で出られると、みんな喜んでいた」
学校ができると、今度は先生たちの送り迎えがひと仕事でした。
島尻彦吉さん「土曜日になったら、自分が船で狩俣に行って先生なんかを下ろす。また月曜日に行って乗せてくる。よくやったよ」
狩俣ヨシさん「狩俣の船が着く所は船が浮くから、こんな風に(洋服を)上げて歩かんといけないから大変だったよ」
ヒデさん「慣れてきたころにみんな帰るから、さびしい思いはあるよ。島の人みたいにしていた」
ヨシさん「島は子どもがいて、ワーワーと騒いだら島らしい。もう子どもがないと騒ぐ人もいない。年寄りばかりで、騒ぐ人間もいないから、さびしいさあね」
5時の船で島を出る先生たちに、お土産を渡します。
保健の先生「これもですか?ありがとうございます」
座嘉比幸枝校長「ありがとうね、元気でね。勇輔がいなくなっても、何度も帰ってくるはずだから」
勇輔くんの祖母・ハルさん「大きい学校へ行っても、また頑張って・・・」
島にとって最後の先生になるかもしれない。見送りには島じゅうの人が集まりました。毎年3月に繰り返された別れの風景。でも、それも最後です。
75年間、島の子どもたちを育んできた学校は、いま静かにその役目を終えようとしています。