堂々と英語の文章を読み上げるおばあちゃん達。3年間、夜間中学でみっちり勉学に励んできました。平均年齢68歳。戦中・戦後の混乱期で、義務教育を受けられなかった方々です。
3年前、初めて珊瑚舎スコーレの門をくぐった生徒達。戦後60年ずっと待ち望んできた学校生活のスタートでした。
新垣洋子さん「とにかく字が書きたいですね。奇麗に書いて、人の前でも自信を持って書けるように」
幼くして両親を亡くし、親戚の元で育てられた新垣さんは、家の手伝いや子守りに追われる毎日で、学校に行かせてもらえませんでした。
入学から3年間、ほとんど休まず学校に通いました。文字の読み書きが苦手だった新垣さん。卒業を前に書いた最後の作文では、原稿用紙9枚にわたり自分の思いを綴りました。
『学校へも行ってないし、勉強していないから、頭も悪いと思っていたので、いつも自分は駄目なんだという気がしていました。どんな金持ちよりもかばんを持って学校に行ける人が最高に幸せだと思い、子ども達にも言い聞かせ、学校は大事、学問は大事と、どんなに熱があっても学校へ行かせました』
それぞれに胸の奥にずっとしまってきた学べなかった苦しみ。その心の空洞を埋めてくれたのが珊瑚舎での3年間でした。
勉強と同時におばあちゃん達にとって嬉しかったのが、同級生と過ごしたかけがえのない時間です。
桃原さん「食べ続けたね〜。3年間」
新垣さん「相変わらずだね。1年からものを持ってくるのは」
高齢でありながらも活き活きと学ぶ姿は、一方でこれまで顧みられなかった沖縄の戦後の問題を浮き彫りにすることになりました。
狩俣信子県議会議員「沖縄は27年間の米軍支配、異民族支配の中で、その部分は完全に欠落しているんです。これを国の戦後処理の問題としてやってもいいんじゃないかと思うくらい」
本土では、戦後すぐに公立の夜間中学が作られたの対し、復興が遅れた沖縄ではずっと見過ごされてきたのです。そんな中、ようやく誕生したのが民間の夜間中学・珊瑚舎スコーレでしたが、寄付金に頼る厳しい運営にも関わらず、行政からの補助金はなく、卒業も認定されないという厳しい状況に置かれてきたのです。
3年間学んだ証として正式な卒業証書がほしいと、沖縄県に対し要請を繰り返した結果、今年1月、沖縄県の教育長が初めて珊瑚舎スコーレを視察。生徒を前に、嬉しい報告を行いました。
仲村守和沖縄県教育長「正式に卒業認定をもらえるような形が出来ないか、検討して参りたいと思います」
県教育庁と市町村の教育委員会で協議を進めた結果、この春から義務教育を受けられなかったお年寄り達に対し、地元の中学校で学べる機会を提供。珊瑚舎スコーレで学ぶ生徒に対しても同様に、正式な卒業認定を行なうことを決めました。
嬉しい決定ではあったものの、新年度以降の取り組みのため、残念ながら、今年の卒業生は適応外となってしまいました。
卒業式の日がやってきました。仲間との別れの時です。
大村トミさん「寂しい、みんなゆーりきやーばっかり卒業するのに」
早川さん「ゆーりきやーって言わないよ。わったーもできやーどー」
3年生18人の内、5人が卒業、残りの人はもう少し珊瑚舎で勉強を続けることになりました。それぞれの胸に、寂しさがこみ上げてきます。
星野人史校長「あなたの『は〜い』は素敵です。人生の様々な出来事を乗り越えて、今こうして立っているあなたの姿そのものです」
新垣さん「学校につくと同時に勉強を教えあったり、ゆんたくしたり、食べたり、この3年間で77年分の楽しい思いをさせて頂きました。思い描いていた同級生も出来たことも一番の喜びです」
晴れやかな気持ちで学び舎を巣立っていきました。その1週間後・・・。生徒達は、修学旅行で鹿児島を訪れていました。霧島神宮では皆揃って参拝です。
新垣さん「珊瑚舎に補助がおりますように・・・。じゃないとね。つぶれるかもしれないさ〜ね〜」
夜の宴では、歌に踊りにおおはしゃぎです。3年間の中学生活はこうして賑やかに幕を閉じました。
春からは高校で学ぶ人、学校に残る人、それぞれの道を歩みますが、同級生として硬く結ばれた絆はこの先もずっと消えることはありません。
さて、戦中・戦後の混乱期で学校に通えなかった人々に対して、この春から就学の機会が提供されますが、就学の方法はこちら。
1.公立中学校に出席して授業を受ける
2.公立中学校と民間施設(珊瑚舎スコーレ夜間中学)の授業を並行して受ける
3.公立中学校に通わないで民間施設(珊瑚舎スコーレ夜間中学)で学ぶ
このいずれかを選択出来ます。3年間学ぶと正式な卒業認定が得られます。現在、各市町村の教育委員会で希望者の募集を行っています。ご覧のところにお問い合わせ下さい。