こちらは、去年12月に発刊された「沖縄の独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子」。小学館のノンフィクション大賞を受賞し、注目を集めている本です。
この本を書いたのが、東京で沖縄の懐石料理を営んでいる脚本家の高木凛さんです。高木さんが照屋敏子のどんなところに惹かれていったのか、足跡をたどりながら、高木さんに話を聞きました。
照屋敏子の生前のテープ「私の意見が通らなかったっていうことを想像すると、女だからですよ」
大正4年に糸満に生まれた照屋敏子は、幼い頃から魚売りを経験。農業や漁業を二本柱に、基地の収入や日本政府に頼らない沖縄の経済的自立を目指し、精力的に事業を展開。その姿は「女親分」と呼ばれるほどでした。
その照屋敏子の生涯をまとめた脚本家・高木凛さんが、今回改めて沖縄を訪れました。
高木凛さん「敏子のような若い女の子だとこの大きさなんですか?」
上原謙さん「だいたいみんな同じ大きさ。ひざをちょっと曲げて、これでリズムを取る。手を離す」
高木さんは、照屋敏子がどんな環境の中、女性としての強さや負けず嫌いな性格が作られていったのかを幼い頃の状況から取材を続けていきました。
上原謙さん「橋がね2つあったんですよ。小さな橋が。それを越えると(照屋敏子の)研究所があった」
今から39年前、当時54歳だった照屋敏子は、この場所で一万坪の敷地をつかって、車えびやクロダイなどの養殖を行っていました。その時も、雇用創出のために地元の高校生などを積極的にアルバイトで使っていたといいます。
高木さん「敏子の面影が残っているのは、もうこの護岸しかないですね」
また、那覇市の国際通りでは、南洋からワニ革を買い付け、バッグなどの販売を行い、自らデザインもてがけていました。
高木さん「照屋敏子という人の話を書き始めたんですよといったら、あらあらといって、こちらのオーナーの島袋さんが、私、あのお店で買ったものを持っているわよっていって、持ってきてくださったのが、この品物なんです。これらのものを彼女は、海外から買い付けて、自分でデザインして、あそこで作っていったわけです」
高木さんが照屋敏子を書こうと思ったのが4年前。2度目のガンの手術を受けた直後でした。気力・体力ともにに落ち込んでいたときに以前、知人が語が語っていたエネルギッシュな照屋敏子のことを思い出したしたのです。
高木さん「敏子という人に夢中になって向き合ってしがみついて書くことが、病というものと向き合いこうやって生きることだったかもしれません」
その後、沖縄へ何度も通い、照屋敏子の足跡を追い続けて来た高木さん。3年がかりで一冊の本にまとめたのです。
この日は、本の出版の報告とともに、久々に照屋敏子の子どもたちと再会したり、お墓を訪れ、生きる勇気をくれた照屋敏子に花を手向け、手を合わせていました。
照屋林英さん「普通の母親ではないですね。高木さんにも話したけど、父親だと思ったほうがいいと。そういう人でした。自分なりに生きた人です」
高木さん「彼女の足跡は、糸満のあの海辺の外港だけしか残っていない。それが現実なんですけれども、彼女が残した叫びとか心とか、まだまだこれから沖縄の空で花咲いていくんではないでしょうか」
照屋敏子さんが亡くなって今年で25年忌をむかえます。25年以上も前から、沖縄の経済的自立を目指して様々事業を起こしていた頼もしい女性がこの沖縄にいたんですね。
こう振り返ってみますと、今も知事が選挙公約に掲げるほど、沖縄の経済的自立とずっと叫ばれていますが、照屋敏子さんが健在で、今の状況を見ていたらなんておっしゃるでしょうか?