障害者自立支援法が全面施行されて1年が過ぎました。必要な介護時間がもらえなかったり、利用者が1割負担するなど、自立支援を謳った理想からはかけ離れた現実があります。障害者にとっての自立とは何かを見つめながら、この法律を考えます。
去年9月の自立支援法施行以来、沖縄では第1号となる介護給付時間の見直しを求めた不服審査請求が県に対して出されました。
大城渉さん「僕は何も贅沢したいわけではなくて、ただ寝返りしたい時に寝返りが出来て、トイレに行きたい時にトイレが行けて、当たり前のことをやりたいだけ」
請求を行なったのは宜野湾市で一人暮らしをする大城渉さん。進行性の筋ジストロフィーという重い障害を抱えています。首から下の自由が利かないため、生活全般にわたる介護が必要です。しかし、名護市から支給されているのは1日わずか10時間。これでは命の危険にさらされると、沖縄ではまだ誰も支給されていない24時間の介護を求めて声をあげたのです。
この審査請求に対して沖縄県は、3回の審査会の後、名護市の処分を一部取り消す裁決を下したものの、就寝時の介護時間をわずかに30分追加しただけというものでした。
これを不服とし、今年3月には再度見直しを求めましたが、その想いが届くことはありませんでした。
大城渉さん「県の人も良心があるとは思っていましたが、それなのにこういう裁決が出されると、こっちはとても許せない」
この裁決から3週間後、渉さんは病院に入院していました。過労も重なって体調を壊し、気管支炎を患っていたのです。渉さんの傍にはお母さんの姿がありました。
大城渉さんの母・大城みゆきさん「病院にいる方が何かあった時にそばに看護婦さんとか医者もいるので安心なんだけど、でも私の人生じゃない、本人の人生だから、本人が好きなようにさせてあげたいと思って」
成人した我が子が自立を願う。当然とも言える想いを叶えたいと、影で支え続けてきた家族に対し、「何故親が面倒を見ないのか」と厳しい意見も寄せられます。
大城みゆきさん「いろんな方からメールとかで、こういろんな批判じゃないけれども、そういうものもありますよね・・・。本人でしか判らない。障害者を持った親にしかわからないことって。言葉ではうまくいい表せないこともあります」
渉さんの2度目の不服審査請求が棄却されたのと同じ頃、24時間の介護給付の支給が行なわれている福岡市では、ある盛大な生誕祭が開かれていました。
都会での生活に憧れ、地元の長崎・対馬を離れて、福岡で24時間の介護を受けながら、自立生活を送った田代伸之さん。脊髄性筋萎縮症という重い障害を抱えながらも、コンピューターの技能をいかした仕事をこなし、多くの友人にも囲まれた暮らしを送っていました。しかしその夢の生活もこの春、24歳の若さで閉じられました。
山田さん「私達は田代の自立の魂を持って生きていきたいと思います」
常に明るく前向きだった彼の生き方は、障害者だけでなく、多くの人の希望であったといいます。そんな彼の誕生日に合わせて行なわれた会。不安を抱きながらも、長崎から伸之さんを送り出した家族も招かれました。
田代伸之さんの父・田代稔さん「施設とか病院にいる時の顔と、博多にいる時の顔は全然違っていました。生き生きとしていました。それは親として福岡に来るたびに感じました。こいつは生きているんだなって感じがしました。もしそのまま自立させなくて、もしそうなっていたら一生後悔していると思います」
濱田征史さん「家におると、まあ、閉じこもりが多かったかなという部分はあったんですけれども、今はね、もう外に出る回数が増えたから・・・」
濱田征史さんは、今年6月から一人暮らしを始めました。住まいは田代さんが生前使っていた博多のアパート。家具一式も譲り受けました。
慣れない自立生活に戸惑いながらも、伸之さんと同じように、コンピューターの知識を活かした仕事につきたいと目下勉強中です。
一方、24時間の介護を求めて、裁判を視野に準備を進めてきた大城渉さんは、先日ある決断を下しました。
大城渉さん「裁判をやめたいと思っています。裁判はどうしても時間がかかってしまう」
訴訟となると何年にもわたって、精神的にも肉体的にも疲弊してしまう。そこに貴重な時間を費やすのは避けたいとの判断でした。
長位鈴子さん「渉の体力っていうか、本当に渉が元気な内に幸せになりたいよね」
障害者の自立支援を謳った法律からは程遠い現実がここにはあります。
今の国会で、自民・公明は、再来年3月までの期限付きで打ち出していた利用者の負担軽減措置について、それ以降も恒久化していく方針を打ち出しました。一方で民主党からも独自の改正案が提出されています。
もともと多くの問題を含みながら施行されたこの法律。障害者だけが考えるべきものではなく、健常者もしっかりその動向に注目していく必要があります。