2001年。熊本地裁判決で、国がハンセン病への国の責任と過ちを認めて6年。ハンセン病問題は大きく進展しました。裁判が終わり、ハンセン病の回復者へ支払われた賠償金。人権を侵害した事への謝罪という、このお金にある思いを託した人がいます。
その人がこちら沖縄出身の作家・伊波敏男さんです。隔離政策がもたらした社会的差別や偏見で傷つけられた「尊厳」を取り戻そうと、本や講演でハンセン病問題を問い続けているハンセン病の回復者です。伊波さんの思いを追いました。
おととい横浜で、ハンセン病学会の主催する沖縄出身の作家・伊波敏男さんの講演がありました。
テーマは「私ができる仕事・伊波基金への夢」。伊波さんが補償金を使って始めた取り組みを紹介、そのきっかけとなったフィリピンの医療現状を説明しました。
伊波さん「高度な教育を受けた医者、看護師、介護労働者が海外流出している。フィリピンの医療は今危機に瀕しています。『学びたい学生はいます。しかし、お金がありません』といわれました」
4年前の6月。伊波さんの自宅に親しい医者たちが訪ねてきました。
「医学を志す人は沢山いても貧しいがゆえに勉学の機会が与えられません」とフィリピンの厳しい現状を話してくれた、マニラのWHO感染症担当官スマナ・バルアさんも一緒です。
色平さん「この方はチョナマリーバティチュアさんという方。カトリックの信者です。21歳の女性です」
説明をするのは医師・色平哲郎さん。伊波さんは、バルアさんから聞いたフィリピンの医療の現状が心に残り、地元で働く医学生を育てる助けになればと、国からの補償金700万円を色平さんに託していたのです。
色平さんはこのお金で、医学生を育成する奨学金制度「伊波基金」を創設する事を提案。チョナさんは、伊波基金による学生第1号なのです。
色平さん「お金の形をした国の謝罪というのを、どういう風に運用できるのか。実にチャレンジであるという風に感じました」
チョナさんは、かつてフィリピンのハンセン病患者を隔離したクリオン島の出身です。クリオン島の施設は日本の療養所建設のヒントにもなったといわれるところです。
医師や看護師となっても、高収入の得られる海外に出稼ぎに出る人が多い中、彼女はふるさとの島で働くため看護師を志しました。しかし、学費が足りず、学ぶ事を断念するところに「伊波基金」の話が舞い込んだのです。
伊波さん「今までこのお金がどういう形で活用されるかと思っていた。先ほど顔を見て、妙なもんですね、自分の娘みたいな気持ちになりましたよ」
基金を作る決断の理由は、伊波さん自らの体験にあります。14歳の時、ハンセン病と診断されるまで2年半かかり、手足に後遺症が残ったのです。
伊波さん「ハンセン病を診断下した医者が、父親と私を前に『どうしてもっと早く、この子どもが医学か医者に出会えば、こんなに後遺症持たなくて済んだのに』と」
激しかった沖縄戦でさえ、守られた命。もっと早くハンセン病の治療が行われれば、後遺症に苦しめられずにいたはず・・・。伊波さんはもう誰にも同じ思いはさせたくないという、苦痛を知る者としての思いを「伊波基金」に込めたのです。
今月、伊波さんにハンセン病学会から初めての講演の依頼が来ました。
フィリピンの医師や看護師養成を支援する「伊波基金」のシステムや第1号のチョナさんが地域の人たちの支持を得て、助産婦の資格も持つ看護師として活躍している事が報告されました。
伊波さん「病人が必要な時に医療が近くにある。病人が必要な時に医者が近くにいれば、どんなに人が助けられるだろう。基金が創設したのは2003年6月です。今はこの中で6人の学生がこの奨学金を受けている」
国が隔離政策の誤りを認めた事で、大きく進展したハンセン病問題。しかし、その後も回復者の宿泊拒否問題が起こるなど、根深い問題は残されたままです。
マスコミの取材熱が冷めると、潮が引くように国民の関心も薄れていくのでは根本的な解決には結びつかないと伊波さんは考えます。
伊波さん「私はハンセン病回復者として確かに当事者です。病気をして苦しんでいる人が当事者だ、そうじゃなくて、無関心でこの問題を放置した国民のひとりとしても、当事者としての責任がありますよ。ですから次の時代にこんな事が二度と起こらないために、私達が次に何をすべきか。みなさんといっしょに手を携えてやって行ければと思っています」
伊波さんは「この伊波基金は、補償金。つまり国民の税金。だから『伊波基金』は国民から付託されたお金で行う『日本基金』なんだ」と話しています。無関心として差別に手を貸したものとして、当事者の意識でこの問題に向き合い、問題を風化させない努力は引き続き必要です。