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2期8年間、沖縄県のかじ取り役を担った稲嶺知事。きょうで最後となる登庁です。

稲嶺知事「(Q:8年間、どうもお疲れ様でした)ありがとうございました。もう、感謝、感謝の気持ちです。これは就任の時につけてきたネクタイですが、女房が大事に取っておいてね、きょう出してくれました」

県の幹部と数え切れないほどの議論を行ってきた知事室。穏やかな表情でいすに腰を下ろします。このあと、全国障害者芸術・文化祭に出席。ここで、かわいいねぎらいの言葉に笑みがこぼれます。

子どもたち「長い間、ありがとうございました」

稲嶺知事「はい、ありがとう、どうもありがとう」

午後には両脇で支えてくれた牧野副知事と嘉数副知事、それに秘書へ退任の辞令を交付。

稲嶺知事「私が微力ながら何とかこの8年間をやれたのも皆様のお陰だと思っております」

そして、週明けの月曜日に知事に就任する仲井真さんと面談し、引継ぎます。

稲嶺知事「私はのんびりしてますけど、これから仲井真さんが大変になる」

稲嶺知事「(県民へのメッセージ)県民の皆様には、この2期8年、ご支持ご支援を頂いたことについて心からお礼申し上げます」「(もっとも苦しかったことは)辺野古への移設を決めたことですね」「私が選挙で掲げて当選したとことではあったにしても、それを決めるというのは大変に苦渋の選択であった」

きょう退任した稲嶺知事、任期中はやはり基地問題に謀殺されました。その稲嶺知事の2期8年間の県政運営を振り返ります。

稲嶺恵一氏「沖縄問題を解釈するためにではなく、解決するために」

稲嶺さんは8年前の選挙で知事に初当選しました。

稲嶺恵一氏「基地も進まない。経済も進まない。どうにもならない閉塞感に襲われているわけです。この暗さを何とか打破したい」

県知事に初当選した稲嶺さん。政府との「沖縄政策協議会」の場で経済振興や基地問題など沖縄が抱える課題を訴え、解決の道を探りました。

稲嶺恵一知事「普天間飛行場の移設候補地をキャンプ・シュワブ内、名護市辺野古沿岸域に決定しました」

稲嶺知事は政府から北部振興策を引き出し、新たな基地は軍民共用空港、そして15年使用期限を打ち出しました。しかし地元の反対運動はさらに燃え上がり、海上での阻止行動へと発展していきました。

野中広務官房長官「沖縄を(サミットの)開催地と決定をすることに致しました」

稲嶺知事「県民の皆さんとともに頑張りたいと思います。ありがとうございました」

政府は2000年のサミット、主要国首脳会議を沖縄で開催することを決めました。稲嶺知事はトップセールスを展開して沖縄をアピール。これに沖縄への思いが深い小渕総理が応えたのです。

アメリカのクリントン大統領、ロシアのプーチン大統領など、主要国の首脳が揃うサミットのニュースは世界中に発信され、沖縄をアピールすることに重要な役割を果たしました。国内的には守礼門をあしらった新札、二千円札が誕生。

稲嶺知事「いろいろな情報関連産業が伸びていくと思う」

コールセンターをはじめ、デジタルメディアセンターなど、IT関連産業が次々と県内に進出。IDB年次総会の沖縄開催など、コンベンションセールスも順調に推移しました。

また、観光も順調に伸び、アメリカのテロ事件で一時は落ち込んだものの、観光入域客年間600万人は目前に迫っています。

そして、かりゆしウェアの登場。東京でファッションショーに小池大臣などと出演するなど、経済界出身の知事の面目躍如となりました。

三次にわたる沖縄振興開発計画に代わる沖縄振興新法も策定。政府に対して「魚より釣り道具がほしい」と訴え、自立型経済に取り組みました。

ただ一向に解決へと向かわなかったのが基地問題。2003年、アメリカのラムズフェルド国防長官が普天間基地を視察しました。

稲嶺知事「沖縄に(米軍専用施設の)75%があるということが非常に問題である」

翌年、普天間基地を飛び立ったヘリが沖縄国際大学に墜落、炎上。周辺の民家も大きな被害を受けました。

ヘリ墜落事件の後、日米再編協議で普天間のキャンプ・シュワブ沿岸案が提案され、V字型の滑走路2本を持つ移設案が明るみに出ると、稲嶺知事は「容認できない」と反発。政府との協議も進まず、暫定へリポート案を提案しましたが、日米両政府の大きな壁に阻まれて手詰まり状態に陥りました。

「解釈ではなく解決するために」と言った稲嶺知事。任期中に普天間は動かず、県民の平均所得は200万円を切り、県民の暮らしは豊かさを実感できない状況が続いています。

この後を継ぐ仲井真さんには、稲嶺知事の残した多くの課題が早くも大きくのしかかっています。