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第2次大戦の際、朝鮮半島から軍夫や慰安婦として日本に強制連行されたその数は100万人以上。このうち1万人数千人が沖縄で過酷な生活を強いられ、日本軍の虐殺などで多くの人々が命を落としました。

今月、その犠牲者を偲び、悲劇を後世に伝える碑が読谷村に完成しました。そこには同胞の死を目の当たりにした元軍夫の男性の深い想いが込められていました。その姿を追いました。

今月11日、韓国から一人の男性が沖縄にやってきました。姜仁昌(カン・インチャン)さんです。

姜仁昌さん「沖縄はとってもよくなった。戦争の頃に比べるとよくなった」「もう最後かもしれない。年を取ってしまったので」

86歳になる姜さんが「最後」と言った沖縄の旅。これまで持ち続けていた「ある願い」を実現するための旅です。

61年前の沖縄戦。姜さんは1944年、軍夫として強制連行され、多くの同胞と共に沖縄に送り込まれました。船から爆弾や食料を運ぶ荷役の仕事をさせられていた姜さんは、慶良間諸島の阿嘉島で悲惨な場面を目にします。日本軍の命令で軍夫の虐殺に立ち会わされたのです。

異国の地で無念の思いの中、死んでいった同胞たち。糸満市の平和の礎には沖縄戦で犠牲となった南北朝鮮の人々の名前が刻まれていますが、虐殺された全て同胞の名前は記されていません。

姜仁昌さん「ここに立つと苦しい。胸が痛む」

九死に一生を得た姜さんがずっと抱えてきた苦しみ。戦争のできごとを後世に伝えるために韓国と沖縄に同胞たちを偲ぶモニュメント「恨の碑」を建立したいと姜さんは強く願うようになりました。「恨」とは韓国の言葉で「うらみ」のことです。

恨の碑は1999年、韓国の南東部、慶昌北道(けいしょうほくどう)・英陽(よんやん)に完成しました。姜さんのふるさと、英陽からは多くの同胞が沖縄に強制連行されました。深い祈りを捧げる姜さん。沖縄に建立する思いは尚一層強くなりました。

それから7年、ようやく沖縄、読谷村に「恨の碑」が完成しました。姜さんの趣旨に賛同して、日本全国から集まった寄付で建てられたものです。レリーフには韓国の碑と同じく、日本兵に処刑されようとする軍夫を悲しい表情で必死に引き止める母の姿が象られています。

完成した「恨の碑」の前に姜さんは無言のままでモニュメントをじっと見つめていました。完成を見届けたかった姜さんの願いが叶いました。

戦後61年。「恨の碑」が韓国と沖縄がひとつに結びました。韓国を向いて建てられた碑には姜さんの胸に今も残る「恨」の想いが深く刻まれています。

碑の建立を決意してから7年の歳月を経て沖縄に建った「恨」の碑。その一方で日本と韓国、北朝鮮めぐる問題は緊張状態が続き、友好的とは程遠い現実もあります。そのような中建てられた「恨の碑」は韓国と沖縄、日本を結ぶ架け橋として立場の違いを超えて、共生していくことの大切さを訴えかけているのかもしれません。