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シリーズ5・15 基地負担軽減の実態

住民から奪い取った土地で基地建設を始める米軍のブルドーザー。これらは1955年、宜野湾市の伊佐浜であった土地の強制接収の様子です。1950年代、県内各地でこうした事件が起きていました。

シリーズ5・15 基地負担軽減の実態

73.8パーセントにものぼる沖縄の米軍専用施設。その負担がどのように膨らんでいったのか。復帰前、アメリカ軍の統治下で琉球政府が作成した資料があります。その記録からは沖縄の基地負担の推移が見えてきました。

1950年代半ば、沖縄のおよそ7倍もあった本土の米軍施設。52年の主権回復の後は大幅に縮小していきました。ところが沖縄は面積が増えていき、復帰の頃には本土を上回ったのです。

沖縄大学 新崎盛暉名誉教授「その背景は何かと言うと、沖縄にはいなくて、ヤマトにいた海兵隊が、朝鮮戦争が終わった50年代半ば頃から反基地闘争を避けるため、沖縄にしわ寄せされたと。」

1955年、東京の米軍立川基地の滑走路拡張を巡り農民たちと警察が激しく衝突した砂川闘争。本土ではこうした反基地運動のうねりが広がったことなどで大幅に基地の返還が進みました。1960年の安保改定までに面積は4分の1にまで減らされました。

しかし沖縄では50年代半ばから岐阜県や山梨県に駐留していた海兵隊が移駐。沖縄の負担は増えていったのです。

シリーズ5・15 基地負担軽減の実態

沖縄大学 新崎盛暉名誉教授「60年という時点で抑えてみると、52年の時点の本土における米軍基地は4分の1に減った。沖縄の米軍基地は2倍に増えた。」

戦後も茅葺屋根の家々が並ぶ海辺の寒村だった辺野古にキャンプシュワブの建設が持ち上がったのは50年代半ば。区の役員は道路の整備などと引き換えに基地を受け入れるよう進めたといいます。

辺野古区民 島袋エイさん「当時は道も潟原、松田で乗り換えしないといけなかったんですよ。こんな道もできるし、ともて良い。みんな賛成してくれと集まりで言われたんです。とにかく貧乏村だったから。そんなにまで考えなかった。危ないとか。少年兵が演習する所だからと聞かされていたものだから。何も、誰も反対はしなかったんですよ。」

しかし基地ができるとのどかな村の様子は一変しました。

辺野古区民 島袋文子さん「戦争さながら。一般兵が銃を持って浜から上がって来るとか、集落内でどこででも(訓練を)やっていけるわけよ。」

シリーズ5・15 基地負担軽減の実態

こちらは在日アメリカ軍の面積を100とした場合のグラフです。50年代半ばには7対1、8対1程度だった米軍専用施設の負担割合が69年にはほぼ半々になっていました。そして復帰直前に逆転、いまの70パーセント台にまで増えたのです。

沖縄大学 新崎盛暉名誉教授「復帰することが決まった60年代末から70年代半ばにかけて、沖縄を含める在日米軍の再編成があって、沖縄を拠点化していったわけね。」

いま沖縄では嘉手納より南にあるアメリカ軍施設の統合計画が進められています

小野寺防衛大臣「将来の沖縄の発展に大変意義のあることと私どもは認識しております。」

こう語る小野寺防衛大臣ですが、返還は県内の別の場所へ移設するという条件付き。1000ヘクタール全てが返還されたとして負担割合は1パーセントも減らないことがわかっています

シリーズ5・15 基地負担軽減の実態

翁長雄志那覇市長「1040ヘクタール返されて73.8パーセントが73.1パーセントの返還になるわけです。 実際は73.8パーセントが73.1パーセント。撤去ではなくて統合なんだよ。統合されるのは沖縄にあるから、沖縄の基地負担は減っていないと。」

本土復帰して42年。政府は実際にはほとんど負担が変わらない米軍施設の統合計画を進め、辺野古への新しい基地建設を強行しようとしています。かつて沖縄の人々が願った本土並み。その思いはいまも叶えられずにいます。